和歌史13
正徹
南北朝時代の終結は、明徳三年(1392)南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を渡して合一を果たして実現した。この当時の有力歌人は冷泉為尹(ためまさ)と飛鳥井雅世(あすかいまさよ)であった。飛鳥井雅世は『新続古今集』撰者として後花園天皇の命を受けた。御子左家系統以外の者が勅撰集の単独撰者になるのは中世では初めてのことだったと渡辺教授は言う。同教授によれば、正徹は定家を理想としていたし、定家の風体を学べと断じている。そして、『正徹物語』に幽玄の美を鼓吹していたとも。
では、その『正徹物語』にはどんな歌があるのか見てみよう。
落花
咲けば散る夜の間の花のうちにやがてまぎれぬ峯の白雲
草根集・一四二五
幽玄体の歌なり。幽玄といふ物は、心にありて詞にいはれぬ物なり。月に薄雲のおほひたるや、山の紅葉に秋の露のかかれる風情を、幽玄の姿とするなり。これはいづくが幽玄ぞ問ふにも、いづくといひがたきなり。それを心得ぬ人は、月はきらきらと晴れて、亜招き空にあるこそ面白けれといはん道理なり。幽玄といふは、更にいづくが面白しとも、妙なりともいはれぬところなり。「夢のうちにやがてまぎれぬ」は源氏の歌なり。源氏、藤壺に逢ひて
見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがてまぎるる憂き身ともがな
と詠みしも幽玄の姿にてあるなり。
落花を詠んだ私の歌、
咲いたかと思えば夜の間に散ってしまった花は、そのまま夢の中に紛れてしまわずに峰の白雲となってしまった。
これは幽玄体の歌である。幽玄というものは、心の中にあって言葉では表現できないものである。月に薄雲が覆っている様子や、山の紅葉に秋の露が懸かっている趣を幽玄の姿だというのだ。この歌はどこが幽玄なのだと問われても、ここが幽玄だとは言いにくいものだ。それを理解できない人は、月がきらきらと晴れて輝き、大空をくまなく照らしているのが美しいときっと言うに違いない。幽玄というのは、けっしてどこが美しいとも絶妙だとも言えない、まさにそういう状態のことだ。「夢のうちにやがてまぎれぬ」というのは、『源氏物語』の歌を踏まえている。光源氏が藤壺と密会して、
逢うことができても次に逢えるのはまれでしかないから、この夢のような逢瀬の中に憂き身を紛れ込ませるようにして死んでしまいたい。
と詠んだのも、幽玄の姿である。
注意したいのは、光源氏の歌では「やがてまぎるる」だが、正徹の歌では「やがてまぎれぬ」と否定形になっているところだ、と渡辺教授は言う。「やがてまぎるる」と「やがてまぎれぬ」が修飾しているのは「峯」であるから、連体形になるはずだ。「紛る」は下二段活用なので、「紛るる」は連体形になる。一方、「紛れぬ」は、「紛れ」に打ち消しの「ず」が付いて、その「ず」が連体形の「ぬ」になったもの。これを勘違いして、「紛れ+ぬ」を完了や強調の「ぬ」がついたものと思って、「紛れてしまった」と解釈する向きがある。それは、間違いであり、渡辺教授が正しい。つまり、花は散って夢の中に紛れ込んでしまうかと思いきや、紛れもなく白雲が峰にかかっている。しかし、あれは花なのか……。風景は明確に見えるのに、その核心はあやふやになる。
ここで、渡辺教授は「朝雲暮雨」(ちょううんうんぼ)の故事を持ち出す。「朝雲暮雨」の意味は、男女の契りや情交、また朝の雲と夕方の雨の事。神女と夢の中で結ばれ、別れ際に「朝には雲となり夕方には雨になって会いに来る」と発した言い伝えから、男女の固い契りや情交の喩えであり、。「暮雨朝雲」も同義である。
「文選」によると、巫山の女神と結ばれたという夢の話で、女神は別れ際に「朝には雲となり夕方には雨となって会いに来る」と言い残して男の元から去った事から、男女の固い契りの喩えや朝の雲や夕方の雨の喩えとなる。
要は、夢か現実か分からないような存在を、雲や雨などの変化しやすく明確な形をもっていないものによって、偲ぶことが幽玄に相当すると言える。
逢別恋
夜な夜なの夢にまぎれぬつらさかな返して寝つる衣々の空
草根集・七一三三
夜ごとの夢に紛れ込んでいけないこの辛さ、衣を返して寝て得た夢の逢瀬からもきぬぎぬの別れを迎えなければならぬ明け方の空よ。
残花
残るなり誰がうたたねの山桜見はてぬ夢の雲の一むら 草根集・一三八二
残ったようだな。誰かのうたた寝の夢の中で咲いた山桜が、見果てぬ夢のごとく、ひとむらの雲となって。
残った桜なのか、それとも花に見紛う雲なのか。現実なのか夢なのか。あるいは現実を夢が侵食してきているのか。ここもまた境界である。
旅
かへりみる形見ぞ残る夜半の夢別れし峰にかかる横雲 草根集・九九七一
振り返ればその形見が残っている。夜半に見た夢と別れた。その峰に横雲がかかっているよ。
夢と雲で「朝雲暮雨」を導入した。「かへりみる」は「後ろを振り返る」と「回顧する」の掛詞になっている。「別れし」は、「別れてやってきた(峰)」の意と、「夢の中で別れた人」の意を重ね合わせた。「峰」と「わかる」は、強い連想関連となっている。つまり、別れ、峰、雲、夢などは複合的に結びついているのだ。
ここで、正徹の幽玄を渡辺教授はどのように見たのかをみてみよう。
引用ここから
正徹が幽玄と呼んだ方法の特徴として、二点が見いだされる。一つは、言葉の重層的・複合的なつながりである。もう一つは、現実と夢(物語や想念)の際が曖昧になる、境界的な地点に立って歌おうとしているところである。この二つは決して無関係ではない。現実と夢の境界むにたつからこそ、現実のくびきに縛られず自由に想像力を広げることができるし、なおかつ、想像の世界に現実感覚を供給することである。幽玄は正徹の創作の方法論と密接に結びついていたと思う。
引用ここまで
さて、いよいよ正徹の姿がもっと明確になるだろう驚愕の共感覚について見てみたい。
夜橘
白妙に匂ひぞまさる橘に月の宮人袖おほふらし
ニ四九六・正徹千首・二三○
真っ白にいっそう匂い立つよ。橘の花に月宮殿の人が袖を振っているらしい。
「白妙」とは、本来栲(たえ。楮などから取った繊維のこと)で織った白い布のことを指すが、ここでは白色を表している。「匂いぞまさる」とは橘の花の香りが一層際立っている状態である。ここに視覚と嗅覚の共感覚が見られる。月にある宮殿の大宮人が袖を振る。「昔の人の袖の香ぞする」という『古今集・夏・一三九』の歌にあるように、橘の花は昔人の袖の香りを想起させるのだ。もともと「匂ふ」は「照り映える」という意味で使われることがある。本当に言葉の複合的結びつきが、現実の感覚と夢幻の世界を行き来する感じだ。
曙春雨
山風の松に木ぶかき音はして花の香くらきあけぼのの雨
一五三七・正徹千首・六○
山風が、松にこんもりと茂った音をさせて咲き、花の暗い香りを運んでくる、曙の雨の中。
「木ぶかきおと」と「花の香くらき」も共感覚表現である。
別恋
衣々の近き形見か寝し床の涙もいまだあたたかにして
六五九九・正徹千首・六二四
近く寄り添い、つい先ほど衣々の別れをした形見であろうか。共寝をした床に落とした涙がいまだ温かさを残して。
渡辺教授によれば、「あたたか」という語は和歌では珍しいという。衣々の別れという古来いくつも詠まれてきた事柄を身体的感覚で表現しようとしたものだ。共感覚や身体的感覚をも駆使して、現実と夢・想念の境界を往来するために、縁語を駆使したのが正徹だとも言える。