成熟と喪失について
成熟と喪失について
喪失経験がない人は成熟しないのではないかと最近思うようになった。私にとっての最大の喪失経験は両親との死別である。愛する人との死別による心の痛みは、なかなか癒されないものだ。特に母親を亡くしたときはこたえた。
その次の喪失経験はリストラによる離職である。これもかなりこたえたが、何とか乗り切りることができた。
この国のいわゆるエリートの人たちというのは、東大に入って官僚になり、天下りを繰り返して莫大な退職金を手に入れる。その間よほどのことがない限り、職を失ったりはしない。もちろん、愛する人たちとの死別はあるだろうが。
そういうエリートの人はいったん何かあると非常にひ弱だという感じがするが、あれはやはり離職などの強烈な喪失体験がないまま未成熟な状態にあるということの証なのではないかと思う。
若い人だと失恋による喪失体験といものがある。あるいは、友人とのトラブルによって友情を無くしてしまうことなども喪失体験だ。また、退学を卒業しても自分の就きたい職に就けなかったことなども、取得できなかったことの裏返しとしての喪失体験と言えるのではないかと思う。
さて、成熟ということについて考えてみよう。成熟とは子どもの状態から大人の状態になることを意味する。大人とは何だろうここで、大人の条件を定義しておこう。
①人間として守らなければならないことを熟知していること。つまり、一般的に他人が嫌がるようなことをしないし言わない。
②法律で決められたことを守ることができる。
③きちんと働いて自分で糊口を凌ぐことができる。
④国民としての義務と権利を弁えている。
⑤自分の意見をはっきりと明快に言うことができる。
⑥他人の意見をきちんと聞いて理解する。他人の厳しい意見があっても感情に流されずに、議論できる。
⑦人生は困難の連続だと覚悟を決めて、あまたの困難に立ち向かう勇気を持っていること。
この他にもいろいろと条件があると思うが、とりあえず上記のようなことができるのが大人だとすると、自分を含めて自分の周りにいったい何人くらいこれに当てはまる人間がいるのか改めて考え直すと、ほとんどいないということに気が付く。つまり、それほど成熟するのは困難なことなのだと思っている。
それなのに、我々はみんな大人だと思って行動しているので、始末に負えないのである。
無常ということが心身に染みついていれば大人の行動が取れるのであるが、無常ということがまるで分かっていないのが現代人であるからだ。