詩歌によせて8
伊東静雄の詩から
「わがひとに与ふる哀歌」
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讚歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに
以 上
私が伊東静雄の詩を初めて読んだときに受けた衝撃は大きかった。それまでになじんでいた中原中也や立原道造などの青春の匂いに満ち溢れた叙情とは全く違う、言うならば冷徹な叙情とでも言うべき詩が、私に大きな衝撃を与えたのだ。それからは、私は冷徹な叙情を大切にした詩歌を我が胸の内に育むことに大きな眼目を置いてきた。
三島由紀夫の『豊饒の海』の第一巻『春の雪』は、この伊東静雄の「春の雪」という題名の詩から取られた。
下に引用するが、この硬質な日本語のきらめきは、まだ若い頃の私の心を揺さぶった。
春の雪
みささぎにふるはるの雪
枝透きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは
なく聲のけさはきこえず
まなこ閉ぢ百ゐむ鳥の
しづかなるはねにかつ消え
ながめゐしわれが想ひに
下草のしめりもかすか
春來むとゆきふるあした
以 上
(原作の改行・空白は無視した)
また、「晴れた日に」という詩がある。その中のある部分が私の胸を強く打った。
「私はお前に告げやらねばならぬ
誰もがその願ふところに
住むことが許されるのでない」
人は、何処で住みたいとか、どんな仕事をしたいとか、どこそこに行ってみたいとか、どんな人と結婚したいとか、様々な希望や夢を持つが、 すべてが叶うわけではないし、すべてが思うとおりにはいかない場合が多々あるものだ。