百人一首に選ばれた人々 その5

 第二章 敗北あるいは失意の天皇
 
 十三番歌 陽成院
「つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」 陽成院
 神世より男女が歌垣のために集う筑波山には、その名も男女川という川があるのだと聞いた。それは、男女二つの峰から流れ出し、合流して里に落ちてゆくのだと言う。
 私は父や母の浅ましい姿を見て、恋などというものは決してするものではないと思って来た。私は恋などをしない男だと決めていたのだ。
 それなのにお前を好きになってしまった。私の気持ちは、細い流れがいつのまにか太い流れになって、ついには深い淵となるように、今は青色に沈む淵のようになってしまっている。その淵には、私の切ない恋心が満々と湛えられているのだ。

『後撰集』ではこの歌には「釣殿(つりどの)の皇女(みこ)につかわしける」という詞書がある。釣殿の皇女とは、後に陽成院の妻になる綏子(すいし)内親王のことである。

 陽成院は悪辣な人間として史書や説話集で悪行の数々を暴かれて、酷い人間だという印象を持つが、本当にあれこれ言われている事柄があったの、それとも虚偽、捏造、デマなのかは分からない。
 陽成院は第五十七代天皇であったが、陽成院の名前で掲載されているので、退位後の御製なのだろう。それにしても、9歳で天皇に即位したかと思うと、17歳で退位した。その後は長生きして82歳で天寿を全うした。
さて、筑波山は男体山と女体山という二つの山頂から成り立っているが、一つの山に二つ山頂があるので、男女同衾を象徴する目出度い山である。
『古事記』にあるイザナキとイザナミという大昔から、日本は男女平等であったので、このような美しい歌をお作りになられた。陽成天皇は、歴代天皇の仲でも大変な悪評に晒されたお方だが、歌の価値は作者の人となりには無関係である。それは、北大路魯山人のような人間としては失格で無茶苦茶な人間でも、彼が残した陶器を初めとする芸術の価値が不変であるということと同じことだ。

 陽成院の母は、藤原高子で、二条の后と呼ばれた御方であり、藤原基経の同母妹でもあったが、この二人は仲が悪かった。基経の出仕拒否からしばらく後の元慶七年十一月、陽成院の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されるという事件が起きた。これに陽成院が絡んでいたという噂があり、このため退位せざるをえなくなった。わずか十七歳のときである。
 陽成院と言えば、この歌を贈った相手の綏子内親王を思い出さずにはいられない。よほど、綏子内親王のことが好きだったのだろう。
率直に何の衒いもなく、自分の気持ちをあからさまに歌ったこの歌が、私はとても好きだ。世の中の人間という存在は、男が半分で女が半分である。性別では男であっても、気持ちは女という人もいるし、逆の場合もある。また、同性にしか興味が湧かないという人もいる。私は同性には全く興味がないが。それぞれの立場で思うままに生きられる世になった。それが良いことか、悪いことかは誰も決められない。

 一般的に人は年を取れば徐々に中性化していく。だから、自分のことも相手のことも、男だとか女だとかを意識しなくて済むようになる。いつまでも俺は男、私は女という立場に拘泥していると、辛くなる場合もある。拘泥しなければ、もっと肩肘張らずに生きられて楽になる。だから、男女平等は大切な価値観である。そして、みんなが男女の分類には無関係に、自分が大切だと思う人を大切にすれば良い。それだけの話である。自分の大切な人をいつまでも大事にするのは、人として大切なことだと思う。


いいなと思ったら応援しよう!