百人一首についての思い その98
第九十七番歌
「来ぬ人を待つ帆の浦の有なぎに役や藻塩の身もこがれつつ」
権中納言定家
来ぬ人を待ち続け、松帆の浦に焼かれる藻塩のように、私の身は恋い焦がれているのです。
Pining for you
who does not come,
I am like the salt-making fires
at dusk on the Bay of Waiting―
burning bitterly in flames of love.
『新勅撰集』の詞書きには、「建保六年歌合恋歌」とある。つまり、「恋」をお題とし読んだ和歌だ。
この歌は「百人一首」の撰者である定家自身の歌であるが、歌人名は「権中納言定家」である。「百人一首」では職位で名前が書いてある場合は、ほとんどの場合歌の中身は職と関係がある歌である。
この歌の前は入道前太政大臣、その前は前大僧正慈円、その前は参議雅経だった。つまり、貴族社会の没落と武家政治の台頭を嘆く歌がずらりと並んだ。「藻塩」とは海藻から作る塩のことであり、塩は人が生きるためには必須の物産である。だから、人々の忍耐の象徴、努力の象徴、生活の象徴ともいうべきものだ。それなので、定家は「身を焦がす思いで、もう訪れることのなし平和な世の中を待ち続けている無念さ」を詠んだのだと考えるが妥当だろう。
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