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百人一首に選ばれた人々 その22
ここでもう一度纏めよう。
阿倍 仲麻呂(百人一首では安倍中麿)のご先祖様は、阿部倉椅麿(あべのくらはしまろ)である。大和朝廷の中で重職に就いた。また、蝦夷 征伐で有名な阿倍比羅夫と玄宗皇帝に可愛がられて、党の詩人王維や李白とも交わった知識人の阿倍仲麻呂は阿部一族の文武の双璧である。
曾禰氏は物部氏の流れを汲む。それでは春道列樹はどうだろう。古今集と後撰集に五首しか作品を残していないのに、百人一首に入っているのはなぜかと、昔の人も思っていたようだ。母春道も曾禰氏と同様物部氏の流れを汲むと称していたという。
小野氏は古代和邇臣(わにのおみ)系統に属するとのことだ。和邇氏は春日・大宅・栗田・柿本などの諸氏族に別れた。小野氏は山背国から近江一帯にいた。有名人は小野妹子・小野老そして岑守・篁の父子である。
小野篁は愉快・痛快な御仁である。承和二年(八三五)遣唐使副使が船出すると、四隻の舟は難破した。翌年再度三隻の舟に乗り込んで出発したが、その中には篁は居なかった。なぜなら、一回目の派遣の際に揉め事が起きたのだ。大使の藤原常嗣の舟が損傷したので、副使の舟と交換したので、篁は強く抗議し、渡航を拒否した。嵯峨上皇は激怒して篁の官位を剥奪し、隠岐国に流刑になった。だが、嵯峨上皇は一年後には篁を許した。
いもうとの見まかりける時よみける
「なく涙雨とふらなん渡り川水まさりけなばかへり来がに」
『古今集』巻十六 哀傷歌八ニ九
泣いて出てくる涙が雨になって降ってほしい。三途の川の水を増して、川を渡れなくてあの人が帰ってくるように。
何とも哀切な歌である。『篁物語』という書物があり、そこでは篁の異母妹のことを指すようだ。私は素人なので詳細は分からないし、調べる気力も力も無い。ただ、目﨑徳衛が言うように、篁という人物は必ずしも「野狂」という激越なだけの人ではなかったようだ。
小野氏の没落の最後の華が小野小町だ。しかし、小町は若かりしころの美女伝説よりも老いて無残になった姿が語られることが多い。それこそ小野氏一族の没落していく姿と見事に一致している。
紀貫之と紀友則は従兄弟であるが、友則がはるかに年上だった。紀氏一族は紀ノ川流域を本拠とする大和朝廷に使えた大氏族だった。大阪近辺に本拠を構える大伴氏と接近していた。大伴氏は陸で、紀氏は海で活躍する。大伴氏は藤原氏に追い詰められていくが、『万葉集』で後世に名を残した。海の軍事力の紀氏も、衰退していく過程で古今歌人を生み出した。
文徳天皇の更衣紀静子(三条町)が生んだ惟喬親王が、藤原良房の娘の生んだ弟(清和天皇)に﨑を越されて、皇太子になれなかった。それが紀氏一族の凋落につながる。
そして、惟喬親王の周囲に紀有常や在原業平(その妻が有常の娘)集い、和歌に打ち込む。『伊勢物語』では「渚の院」として有名で有り、現在の大阪府枚方市にあった。
文徳天皇の更衣紀静子(三条町)は紀名彪という人の娘だったが、この人は野心家だから、三条町を更衣にして入内させた。しかし、紀友則・貫之の曾祖父興道は兄弟の名彪とは違っていた。平凡で下級官人かせいぜい中級宮人だった。
紀友則は四十歳を過ぎるまでめぼしい官職に就けずにいて、不遇の日々を送っていたと考えられている。それは『後撰和歌集』に次の贈答歌が残されているからである。
友則がまだ官(つかさ=官職)を得ていないころ、藤原時平が何かのついでに年齢を尋ねた。四十余と聞いて時平はその年になるまでどうして花も咲かず、実も結ばなかったのかとおどろく。
《詞書》
紀友則まだつかさたまはらざりける時
ことのついで侍りて年はいくらばかりにかなりぬると
問ひ侍りければ 四十余になんなりぬると申しければ
贈太政大臣
今までになどかは花の咲かずして よそとせあまり年切りはする
(後撰和歌集 雑)
返し 紀友則
はるばるのかずは忘れずありながら 花咲かぬ木をなにゝうへけむ
(後撰和歌集 雑)
藤原時平は官公を太宰府に左遷させた悪人として有名だが、友則が土佐掾(とさのじょう=土佐の国司の判官)という官職にありつき、つづいて内記(ないき)の職を得たのは時平の尽力があったからではないかといわれている。内記は天皇の命令を伝える公文書や辞令を書いたり、宮中の記録をとったりする役職である。文才があって書もうまくないと務まらないエリート職であり、のちに貫之もこの職に就いてる
そして、友則を引き上げてくれた時平は死後に太政大臣の位を贈られたぐらいだから、業績はそれなりに高く評価されていたのだろう。
紀貫之は友則と比較すると、才気煥発で輝かしい名声を得た。三条右大臣の藤原定方と中納言兼輔の庇護を受けることもできた。
やよひの下(しも)の十日ばかりに、三条右大臣、兼輔朝臣の家にまかり渡りて侍りけるに、藤の花さけるやり水のほとりにて、かれこれ大みきたうべけるついでに
三条右大臣(定方)
「かぎりなき名におふふぢの花なればそこひもしらぬ色の深さか」
後撰集 一二五
兼輔朝臣
「色深く匂ひし事は藤浪の立ちも帰らで君と止まれとか」
後撰集 一二六 貫之
「棹させど深さも知らぬ淵なれば色をば人も知らじとぞ思ふ」
後撰集 一二七
琴笛などして遊び、物語りなどしはべりけるほどに、夜更けにければ、まかりとまりて
三条右大臣
「昨日見し花の顔とて今朝見れば寝てこそさらに色まさりけれ」
後撰集 一二八
兼輔朝臣
「一夜のみ寝てし帰らば藤の花心とけたる色見せんやは」
後撰集 一二九
貫之
「あさぼらけ下行く水は浅けれど深くぞ花の色は見えける」
後撰集 一三〇
この三人の周囲には沢山の人々が集い、そのサロンは別天地を作っていたという。ところが、延長八年清涼殿落雷事件が起きる。天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷神となり雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった。そして、醍醐天皇、宇多法皇、三条右大臣、兼輔朝臣も次々に儚くなった。その後、太政大臣藤原忠平が全成を誇る時代になる。
百人一首大二十六番歌「小倉山峰のもみじ葉心あらば今ひとたびのみゆき待 たなむ」を詠んだ貞信公とは藤原忠平のことである。この歌に心を動かされた醍醐天皇は実際に行幸されたのだ。
既に老境に入っていた貫之は、次の様な歌を詠んだ。
官給はらでと嘆くころ、大臣殿(忠平)にのもの書かせ給ふ奥にてよみてかける
「思ふこと心にあるをあめとのみ頼める君にいかで知らせん」
『貫之集』巻九
今度は忠平の息子の実頼に宛てた歌。
三月二つある年左の大臣実頼の君に奉る
「あまりさへありて行くべき年だにも春らかならずあふよしもがな」
『貫之集』巻九
そして、今度はむ坊城の右衛門督(うえもんのかみ)師輔に宛てたもの。
「朝日さすかたの山風いまだにも身のうち寒き氷解けなん」
「枯れ果てぬ埋もれ木あるを春はなほ花のゆかりに避(よ)くなとぞ思ふ」
かへし
「埋もれ木の咲かで過ぎにし枝にしも降り積む雪を花とこそみれ」
「あら玉の年よりさきに吹く風は春ともいわず氷解きけり」
老いた貫之はなんとか官職を得たいと思って特技の和歌で、政治的実力者の忠平とその息子達に申請したのだ。現代では詩歌にはこのような社会的機能はないし、世俗的効果も皆無である賀、平安貴族の間での詩歌が持つ機能の大きさに注目すべきであろう。そして、古代氏族の紀氏凋落ぶりが貫之の老境にぴったりと重なる。
第二十九番歌 凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
「心あてに折らばや折ら初霜のおきまどわせる白菊の花」
『古今集』 巻五秋歌下二七七
古代氏族凡河内氏は河内の国造だと思われているが、大氏族ではない。内裏では御厨子所(みずしどころ)に出仕していた。貫之は御書所預に出仕したいたが、御厨子所の「膳部」(かしわで)は地位が一段低い。
『古今集』によって躬恒は大いに評価され、延喜十三年の「亭子院(ていじいん)歌合」では花形だった。しかし、枯れ野歌人としての名声と世俗的地位は大いにかけ離れていたので、不遇の身をさまざまに訴えていた。
延喜御時、御厨子所にさぶらひけるころ、沈めるよしを歎きて、御覧ぜさせよとおぼしくて、ある人に贈りて侍りける
「いづくとも春の光は分かなくにまたみ吉野の山は雪ふる」
『後撰集』 春歌
「かれはてんのちをば知らで夏草のふかくも人をたのみけるかな」
『古今集』巻十四恋歌四 六八六
今度は中納言兼輔に宛てたもの。
《詞書》
もとよりともだちに侍りければ 貫之にあひかたらひて
兼輔朝臣の家に名づきをつたへさせ侍りけるに
その名づきにくはへて貫之にをくりける
「人につくたよりだになし 大あらきのもりの下なる草の身なれば」
『後撰和歌集 』雑
「大荒木の森(おおあらきのもり)」は歌枕であり、大殯(おおあらき)が語源ともいわれる。「大荒木の森の下草」はだれからも相手にされない境遇を指す。
さらに、宇多上皇にまですがった。
「たちよらむ木もともなきつたの身はときはながらに秋ぞかなしき」
『大和物語』三十三段
このように様々なつてを使って、よりよい官職を懇願し続けた躬恒は、延喜十六年の石山御幸の時、和泉権掾の躬恒は近江介の兼輔に呼ばれて、院への贈物にする屏風。正治に名所の歌を詠みかつ書かせられた。その時、こんな歌を詠んだ。
「和泉にて沈みはてぬと思ひしを今日ぞ近江に浮かぶべらなる」
なんとも浮き浮きとした気分が伝わる歌だ。尊権名作品と我が身を嘆ずる物悲しい作品とが綯い混ざっているが、その落差のおおきさこそが宮廷詩人の宿命だったのだろう。