百人一首に選ばれた人々 その34

 第六章 嘆きと機智と
 
 第四十七番歌 恵慶(えきょう)法師
「八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり」
『拾遺集』 巻三・秋

『拾遺集』にこの歌が載っているが、詞書きには「河原院にて荒れたる宿に秋来るといふ心を人々詠みはべりけるに」とある。

 河原院とは、第十四番歌の河原左大臣、つまり源融が建てた豪邸のことだ。時が過ぎるとともに、豪邸も荒れ果てていく。この歌が詠まれた頃には、ツタが重なり合って廃屋みたいに見えるこの建物に源融の曾孫の安法法師が住んでいた。寂れた状態を好む人々が歌会などをこのようなところで開いていたと言う。だから、「人は訪れませんが秋は来るのですね」というものの、実際には時々人が集まったという。

 平家物語の冒頭部分は非常によく知られている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ」
 まさしく無常である。無常とは永遠に変わらずに続くものはない、物事や状況は常に変化するということだ。栄枯盛衰や季節というものは、繰り返し巡ってくる。

 道元禅師はこのように歌を詠まれた。
「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり」

 季節は移ろう。物事は常に変化している。春になれば桜が咲くが、一週間もすれば見事に散る。やがて、新緑の美しい季節になるが、その間私たちは少しずつ年を取っている。

 無常はこのように明確に理解できるが、そのことを自覚せず自分やその一族の栄耀栄華が永続するものだと勘違いする人もいる。だから、平家一門の悲劇が生まれた。そして、ひとつの終わりが来てもまた新しく始まる。そうなのだ。終わりばかりが無常ではない。新しく始まることもまた無常なのである。

 春秋が巡る間に、新しい世代に交代して人々は生活を営む。そして、継続していく新世代もあるのだということを念頭に置いて、栄枯盛衰の世の中を、一つの和歌を取り上げて、人々に示した藤原定家という歌人は偉大だった。
 
 恵慶法師は経歴不明の僧侶だが、どうやら俗世界のほうにも未練をたっぷりと残していた用で、つぎのような歌を残している。
「桜散る春の山べはうかりけり世をのがれにと来しかひもなく」
『新古今集』
 
 さて、『拾遺集』では四十七番歌には詞書が付いているが、それは次ぎのようなものだ。
「河原院にて、荒れたる宿に秋来といふ心を、人々よみ侍りけるに」
 河原院とは源融が造営多邸宅であり、陸奥国の塩釜を模倣した園池があったという。紀貫之は次の歌を詠んだ。
「君まさで煙絶えにし塩釜のうらさびしくも見えわたるかな」
 融の子供がこの邸宅を宇多天皇に献上し、寵姫の京極御休息所(藤原褒子)がここに置かれた。それから、河原院は寺になり、融の子孫である安法法師がここに住んだ。
 つまり、贅を尽くした華美な邸宅は、まるで山里に秋風が忍び寄るような孤独で寂寥な世界にと変わったのだ。平兼盛、清原元輔、源重之、恵慶法師、安法法師、源順などがいた。これらの人達を「河原院グループ」と呼ぶ専門家もいる。賜姓皇族が多いのに気が付く。名流ではある賀、権力座からは遠い。つまり、自恃と失意とが綯い混ざった心境の人々が、連帯感を持って集まったということかもしれない。
 そして、権門一族と四位や五位の下級官人の受領層との身分差が固定化してゆく中、受領層の中でも世渡りの上手な人と世渡りの下手な人がいた。目﨑徳衛は、これを受領型と文人型と呼んだ。受領型は、権門に取り入り、地方官の職にありつく。そして、莫大な富を蓄えるというタイプのひとたちである。文人型というのは、文筆や執務には自負があるけれど、不器用な性格で冷や飯を食わされる人々である。そういう人々は鬱屈した心情を詩文、和歌、日記に吐露するしかなかった。百人一首の作者達には受領型はいない。ものの見事に文人型がずらりと並ぶ。
『安法法師集』には次の歌がある。
 前和泉守順のきみの、つかさ給はらで近江の野州の郡にあるにいひやる
「世をうみ(湖・倦み)に思ひなしてや近つ江の野州(やす)のすまゐへ君は行くらん」
 とは、天暦五年(九五一)村上天皇の命により、平安御所七殿五舎の一つである昭陽舎に置かれた和歌所の寄人として梨壺の五人(なしつぼのごにん)が選ばれた。昭陽舎の庭には梨の木が植えられていたことから梨壺と呼ばれた。『万葉集』の解読、『後撰和歌集』の編纂などを行った。
大中臣能宣、源順、清原元輔、坂上望城、紀時文の五人である。
 源順は二十代で『和名抄』を著した。「梨壺の五人」に選出されたときは、四十一歳でしかも「大学学生(がくしょう)」で、ようやくその二年後ようやく文章生になった。五十七歳で和泉守として受領に就任する。
順はしたがって、「疲れたる馬の型」などをはじめとして不遇を嘆き訴える詩や和歌を沢山作った。また、馬では飽き足らなかったのか、牛も登場させた。「無尾牛歌」というのがそれである。
「我に一牛有り、尾すでに欠く。人人嘲りて無尾牛となす」といものだが、自分自身を尾の欠けた牛に喩えた。
「白けゆく髪には霜やおきな草ことの葉もみな枯れ果てにけり」
『平安朝歌合大成』二
 ありし日の梨壺の栄光を回顧し、老残の身を詠嘆した。
 
 藤原倫寧(ともやす)は右大将道綱母の父親である。その倫寧とともに四人の連名で申文を提出した。その内容は、諸国の受領に欠員が出た場合には、新人だけに割り振るのではなく、旧人にも割り振ってくれというものだった。
 倫寧は一年ほど後に伊勢守になった。だが、順には音沙なしのままだった。申文を出してから、六年の歳月を経たとき、さらに申文を作った。
「家富めば則ち愁ふべからず、農桑に就きて余命を養ふべし。年若ければ亦嘆くべからず。飢寒(きかん)を忍びて後栄を期すべし。年老い家貧しく、嘆き深く愁ひ切なるに当たりて、愚や宿世の罪報を知らず、泣いて猶明時の哀憐を仰ぐのみ」
 恥も外聞も無く、泣き落としをかけて、それが実ったのだ。
 
 平兼盛もまたそのような申文を出した。兼盛は百人一首の第四十番歌で有名な歌人である。
「忍ぶれど色にでりけり我が恋はものやおもふと人の問ふまで」
彼は大監物という京官を長いこと務めていたが、京官と受領では実入りが違う。そこで、彼もまた申文を提出する。
「一国を拝する者は、その楽しみ余りあり。金帛蔵に満ち、酒肉案(つくえ)に堆(うずたか)し。況んや数国に転任するをや。諸司に老ゆる者は、その愁ひ尽くる無し。荊棘庭に生え、煙比炉に絶ゆ。況んや窮苦多年なるをや」
 兼盛は当時七十歳くらいだったが、この哀訴で駿河守を拝した。
 
 さて、受領になれなくて困惑する人はまだ他にも多数いた。その中から、百人一首に関連して、清原元輔をみてみよう。元輔は紫式部の父親である。
 

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