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男の純情、女の純情
石川桂郎
ゆめに見る女はひとり星祭り
七夕にたった一人の女のことだけを思っている男がそこにいる。それこそ、世の中の半分は男で半分は女だ。つまり、星の数ほどの女がいる。しかし、一人の男が出会う女の数はさほど多くない。学生時代から社会人になるまで、多数の異性に出会ったとしても、そのほとんどが地縁や血縁を通じて知り合った人々、知人、友人、関係者でしかない。
それなのに、男はたった一人の女に恋をした。「思う人には思われず、思わぬ人に思われる」というのはざらにあることで、もしもその男が思っている「女」が、その男のことを思っていないとすれば、女には迷惑なことだろう。それとも、迷惑だけど女としては嬉しいということなのか。まあ、よく分からないが。ただ、この句は男の純情をよく表している。
山川登美子
それとなく紅き花みな友にゆづりそけきて泣き手忘れ草つむ
それとなく友人のあなたに赤い花をゆずり、自分自身の恋心にそけき、泣きながら忘れ草をつみ、全てを忘れようとしている私なのです。
この歌は明治三十三年十一月刊行の「明星」に掲載された。注に(晶子の君と住の江に遊びて)と付けられているそうだ。つまり、与謝野鉄幹、晶子、登美子の三人が大阪の夏での出会いを回想したものだという。
そうすると、「赤い花」は鉄幹の事を指しているだろうし、友は晶子のことだろう。現実の世界では信頼できる友人の晶子に恋の結果を譲り、自分は精神世界で鉄管を慕い続けるという覚悟なのだろう。
そのような解釈を、道浦母都子は『女歌の百年』のなかで披露した。私は、この解釈を読んで、登美子もまた、西行や実朝と並んで「境界の人」だったのだと思った。
「境界の人」というのは、現実の世界と精神世界を行き来したり、現在と過去あるいは未来を行き来したりする人のことである。ある意味では詩歌に関わる人はみな「境界の人」だとも言える。
もう一首紹介したい。
をみなにて又も来む世ぞ生まれまし花もなつかし月もなつかし
登美子は一九○九年四月二十八日に二十九歳で逝去した。この歌はその二年前の歌である。