百人一首についての思い その40
第三十九番歌
「浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき」
参議等(ひとし)
ススキがまばらに生えている小さな野原の笹の群落を偲びますと、重いが余って、なぜか人が恋しくなります。
I try to conceal my feelings,
but they are too much to bear―
like reeds hidden in the low bamboo
of this desolate plain.
Why do I love you so?
嵯峨天皇の曾孫である源等は、参議という職に就いていた。『百人一首』では、名前が役名で書かれている場合は、そのほとんどが職業に関わる歌である。
ところで、「茅」とはススキのことであり、「篠」とは若竹のことだ。ススキはどんなに強い風が吹いても折れないし、倒れない。若竹も同様に折れず、倒れない。
政治家や官僚が世の中を変えようとすると、必ず強い抵抗に遭う。それは、世の中は既存の仕組み野中で動くので、必ず既得権益者がいるし、彼らは組織として抵抗する。既得権益者が自分たちの利権を守ろうとする姿勢は大変に強くて、変革者は手強い抵抗に遭うし、これにひたすら耐えねばならない。源等は、この歌でそういう耐える姿を見せているのだろう。
では、なぜ「人の恋しき」なのだろうか。「おほみたから」のために働き、参議としての務めを果たす。この参議にとって、本当に恋しいのは「おほみたから」なのである。
ただし、英訳では一人の人間に対する恋というようになっている。それは、マクミラン氏の外国人としての限界が現れているのだろう。外国人は日本人と同じようには理解できないといことがあってもおかしくはない。マクミラン氏の理解が浅いなど失礼なことを言ってはいけない。私たち日本人が、キリスト教の教えにしっかり裏打ちされた欧米人の発想を読み切れないのと同様のことだ。
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