生きるとは
本題に入る前に私が好きな俳句と短歌を紹介したい。
だしぬけに 咲かねばならぬ 曼珠沙華 (後藤夜半)
曼珠沙華 散るや赤きに 耐えかねて (野見山朱鳥)
曼珠沙華 葉を纏うなく 朽ちはてぬ 咲くとはいのち 曝しきること (斉藤史)
私達は、どんな時代、国、民族、都市、地方、親の下に生まれてくるのか、全く選択の余地はない。ローマ時代の貴族に生まれたいと今更願ってもそれが叶うはずもない。全く選択の余地がないままに、この世に放り出される。まさに「だしぬけに」生まれるのだ。どんな綺麗事を言っても、生まれた時点から格差は付いている。
私個人の話をすれば、まあまあ裕福な家に生まれた。このことは、親には感謝しても感謝仕切れない。だから授業料の高い大学に通えた。ただし、私が大学に入る頃には、親は年老いて仕事を止めねばならなかった。私は父親が50歳の時にできた長男なので、たいそう可愛がって貰った。また、父は途中で仕事に失敗し、借金を抱えてしまった。
そのため、私は自分の生活費は、自分で稼がねばならなかった。それで、四年間は牛乳屋に住み込み、牛乳配達のアルバイトをやり抜いた。授業の間もアルバイトに精を出した。友だちが遊び惚けているときに、アルバイトをしなければならなかったのは辛かったが、私の人生にとても豊かな経験だったと思う。つまり、幼い頃は裕福だったが、大学に入る頃にはもはや裕福とは言えない人生だった。それで、私はとにもかくにも安定した仕事に就くことにしたが、大手の会社は嫌だったので中規模の会社に入った。
さて、ここからは一般論に入る。
人生に対する態度を、大雑把に4種類に分けてみた。
精神的満足:これは美意識や善などを大切にする生き方であり、日本人は比較的この範疇に入る人が多い。この生き方には、職人意識が高く、金銭的報酬よりも自分の仕事の出来映えを大切にするという生き方も含む。
世俗的満足:これは有名になることや金持ちになることを大切にする生き方である。中国人や朝鮮人は、この範疇に入る人が多い。仕事の出来映えとか、仕事に打ち込む態度よりも、結果としていくら儲かったのか、どれくらい有名になったのか、どのくらいの地位に就けたのかがたいせつなのである。
哲学的満足:「哲学的」とはいうものの、ここには音楽、文学、建築、美術などの芸術、つまり精神的満足度で触れた美意識とは別の次元の美意識のことである。どちらかと言うと、自分の美意識を具体化したものが作品になる。
宗教的満足度:宗教を何よりも重んじる態度のことである。イスラム教徒やヒンズー教徒、カトリック教徒などはこの範疇だろう。プロテスタントは、どちらかというとこの範疇ではなく、世俗的満足を大事にする態度である。
もちろん、日本人の中にも、世俗的満足しか頭にない態度の人はいる。また、そのような生き方が悪いなどということはない。いつも言うことだが、人生に対する態度などは、十人十色であるし、一人の人間の中でも様々な要素が混ざり合っているものだ。
さて、そういう人生の態度とは別に、私達は食べていかねばならない。いくら音楽が好きでも、音楽を飯の種にできる人は、ほんの一握りに過ぎない。役者や俳優なども同様だ。それなのに、我が馬鹿息子は、音楽に入れあげて、それで生きている。何とも貧乏な生活をしているので、溜息が出るばかりだ。退職して新築の一戸建てを購入したが、それも私達夫婦が死んでも、馬鹿息子には住むところだけは用意しておこうと、夫婦で何度も話し合った結果である。
馬鹿息子が専門学校を卒業しても就職しないと分かった時、私は作戦を立てた。馬鹿息子をうまく追い出して自活させるための作戦である。最初の年は月額2万円の家賃で住まわせてやる。次の年は4万円、翌年は6万円と家賃を2万円ずつ上げるので、それでよければ住ませてやると宣言したのだ。(その当時はマンション暮らし)
さすがに、月額8万円になったら、家を出て行った。そして、今は家賃13万円くらいの処に住んでいるが、一応仕事の関係だというので、会社から金が出ている。つまり、それくらいの収入はもらえる程度の仕事には成長したのだ。そんな馬鹿息子だって、親としては可愛いのは当然である。
ともかく、この世に生を受けた以上は、生きねばならない。途中で自死したり、こんな人生は気に入らないからと放棄したりすることは許されないのである。
まさに、生きるとは「命曝しきる」ことなのだ。ひたむきに生きるしかない。