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鼯鼠五技
散歩に出かけたら、小さな雀が私の目の前をよちよちと歩いていたのが見えたことがあった。彼らの生活範囲というのは、鷹や鳶といった鳥に比較すると、かなり生活範囲が狭いのだろう。体の大きさから推測しても、長時間の飛行には向いていない。
狭い生活範囲の中なら、長時間の飛行は不要だから、小さな体と小さな羽根で間に合うように設計されている。鳥にせよ魚にせよ、その種の生活環境に一番適切な設計になっているはずで、それに応じた能力が与えられている。
さて、その動物の能力ということについて、以前から少し気になることがあった。多芸だが未熟であることを「鼯鼠五技にして窮す」という。多芸だかいずれも未熟という意味や多彩な才能があるがどれも中途半端で役に立たないということの喩えである。
鼯鼠とはムササビのことである。したがって、ムササビのことを馬鹿にした言葉なのだ。
ムササビは木登りができる。空を飛ぶことができる。穴を掘ることもできる。水中を泳ぐこともできる。速くはしることもできる。以上が『むささびの五能』である。
まさに多芸多才であるが、では、ひとつひとつの才能の高さはどうか。泳げるといったって魚ほどではない。走ることも馬にはおよばない。空中を飛ぶといっても、せいぜい木から木へ飛ぶのであって、たとえば燕のように海を越えることはできない。穴が掘れるといったってモグラのように地下で暮らせるわけでもあるまい。つまり、むささびの『五能』はいずれも『ある程度』といった性質のものである。
しかし、よく考えてみると、ムササビは自分の生活圏の中ではこの五技を発揮すれば、生き延びていくには十分なのである。何も、燕や白鳥のように海を渡らねば暮らせないわけではない。鷹や鳶のように上空高く舞い上がらずとも、餌は獲れる。自分の持っているいろいろな技を組み合わせれば、生活できるのである。
だから、このような言葉に出会ったときは、鵜呑みにせずによく吟味してみる価値があると思う。たしかに、先哲の言葉には重みがあるが、それらの言葉は自分の考えに照らし合わせてみて、鵜呑みにしてもよいのか迷うこともまた大切だと思うのだ。