百人一首に選ばれた人々 その2

 二番歌 持統天皇
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」『新古今集』夏・一七五(百人一首)
 
 大伴部 博麻(おおともべ の はかま)という人がいた。筑後国の上陽咩郡(かみつやめぐん)の人。斉明天皇(皇極天皇)7年(661年)、新羅の攻撃によって滅亡した百済を再興すべく派遣された(白村江の戦い)軍の一員として渡航するが、唐軍によって捕らえられて長安へ送られた。   
長安には遣唐使でその頃は捕虜になっていた土師富杼(はじのほど、姓は連)、氷老(ひのおゆ、姓は連)、筑紫薩夜麻(つくし のさちやま、薩野馬とも。姓は君)、弓削元宝(ゆげのげんほう、がんほう、姓は連)の子らがいた。
 天智天皇3年(670年)、唐が日本侵略を企てているという知らせを聞いた博麻は、富杼らに相談し、自らの身を奴隷として売って前に述べた仲間四人の帰国資金とした。その後、天智天皇10年(671年)に薩夜麻を含む4人が対馬に到着し、唐の計画を太宰府に伝えた。博麻は異国の地に留まることを余儀なくされ、唐軍に捕らえられてから実に30年近くが経過した。持統天皇4年(690年)に顔見知りの人(新羅使)に連れられて日本に帰国した。持統天皇は、天武天皇13年12月(684年)に土師甥を迎えた際の例に準じて新羅使らを饗応することを、河内王らに命じた。
 
 持統天皇はその愛国心を讃えて博麻を務大肆従七位下に任じ、絹を四匹(一匹 = 四丈)、綿を十屯、布を三十端、稲を千束、水田を四町与えた。また、子孫三代に渡って水田の相続を許可する事と税の免除を約束し、勅語を送った(「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」)。この勅語は「愛国」という単語の語源となったものであり、天皇から一般個人に向けられた最初で最後の勅語である。

 持統天皇は、博麻に「汝独淹滞他界。於今舟年矣。朕嘉厥尊朝愛朝愛国売己顕忠」(汝(うまし)ひとり他界に淹滞〈えんたい=長い間とどまる〉すること今において三十年なり。朕(われ)、その朝(みかど)を尊び国を愛し、己を売りて忠(まめなるこころ)を顕(あらわ)せることを嘉(よみ)す)」としていうさきの詔勅を下された。

 シラス統治を復活した天智天皇が第一番歌目、「愛国」という言葉を初めて文字で示された持統天皇が第二番歌目に配列されている。これで百人一番歌にはしっかりとした構想があって、作成されたものだということが分かる。

 さて、この歌は万葉集では、「春過ぎて 夏きたるらし 白妙の 衣干したり 天の香久山」(万葉集)となっている。
 百人一首では「衣ほすてふ」とあるから「衣を干すという」という意味であり、伝聞の形式になっているのに対して、万葉集では「衣干したり」とあるから、「衣が干してある」と目の前の光景になっている。平安貴族にとっては、香具山など見たこともないだろから、「衣ほすてふ」のほうが相応しいと思ったのではないだろうか。


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