百人一首についての思い その97
第九十六番歌
「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり」
入道前太政大臣
桜の花を散らす山嵐で、庭はまるで雪景色のようだが、その降りゆくさまは、老いゆく我が身を見るかのようだ。
As if lured by the storm
the blossoms are strewn about,
white upon the garden floor,
yet all this whiteness is no snow―
it is me who withers and grows old.
この歌を詠んだ入道前太政大臣とは、藤原公経のことである。この人は、鎌倉幕府とは密接な関係にあったため、後鳥羽院が鎌倉幕府打倒の宣旨を出す直前に拘禁された。身の危険を察知した公経は、鎌倉幕府に使いを出した。そのため鎌倉幕府は、後鳥羽殷の倒幕計画を察知し、後鳥羽殷を拘束した。
そして、後高倉院を上皇に擁した。そのため、公経は朝廷で強大な権力を手にした。だから、普通に読めば、いかに莫大な財力と権力を手にしても、老いは勝てない悲しみを、この歌はよく表しているということになる。しかし、九十番から九十五番までは、「シラス国」の崩壊を悲しむ歌が続いている。「承久の乱」で「シラス国」の崩壊を決定的なものにした公経の歌にはどんなメッセージが込められているのか。
「花」は美しかった日本、「嵐」は内乱、戦争、権力闘争を表している。「庭の雪」は「平和」を表す。そして、平和を散らしてしまった公経は、我が身が降り行く(年老いる)ことに気がついて、「花(平和)を自分が散らしてしまった、我が身そのものをも己自身が散らしてしまった」と嘆いているのだ。