西行の足跡 その47
45「杣下す真国が置くの川上にたつき打つべし苔小波(さなみ)寄る」
版本系山家集雑974a
筏流しをしている真国川は、その水源地で木樵が斧を振るっているらしい。水面に苔のように肌理細かい波が震えている。
この歌の直前の二首は、以下のようなものだ。
「まさき割る飛騨の匠や出でぬらん村雨すぎぬ笠取の山」
山家集中・雑・973
まさきが美しく紅葉しているのに、それを割って細工をしていた笠取山の大工は、無事に山を出られたのだろうか。傘がなくて辛い村雨が通りすぎた。
「川合(かわあひ)や真木の裾山石立てる杣人いかに涼しかるらむ」
山家集中・雑・974
川も二つが交わった。真木立つ山も裾が開けている。そんな立派な自然の庭に杣人は石を立てている。その得意げで涼しそうなこと。
大工仕事をしている杣人を「飛騨の匠」というのは皮肉である。
「宮作る飛騨の匠の手斧音ほとほとしかる目をも見しかな」
拾遺集・雑恋・国用
宮大工の手斧のほとほとという音のように、本当に危ない目に遭ったことだ。
夫ある女のところにひそかに忍んでいた時、夫と鉢合わせしそうになった藤原国用が、翌日女に詠んでやった時の歌だ。
我々現代の一般人は、木樵や宮大工の仕事と聞くと、それは伝統的な仕事であり、立派な技術を保存していて、今後も大切にしなければいけない仕事だと思う。だが、都に住む中古の貴族にとっては、杣人やら宮大工のする仕事は、実用のためだけの風情も趣も何もないものと映ったのだろうかと訝しむ。
「真国が奥の川上」で伐採する木樵の所業を、苔小波が立つ川下で感じ取っているのだ。このとき、西行は禁忌を犯す木樵を責めているのではなく、伐採する神々の姿を幻想しているのだと、西澤教授は言う。そして、木樵や杣人の日常生活の所業の中に、神の鼓動を聞いている西行こそは、「神と語る言葉」を持っていたのだ。