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百人一首に選ばれた人々 その33

 そして、もう一人の女を登場させたい。
 第五十三番歌
「嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかにひさしきものとかは知る」 
 右大将道綱の母
 嘆きながら一人で寝る夜の明けるまでが、どれだけ長く感じるものか、ご存じでしょうか。ご存じないですよね。
 
 日本三大美人とは、衣通姫、小野小町、そして『蜻蛉日記』の著者であるこの藤原道綱の母を指す。
 夫は藤原兼家といって、従一位にして関白太政大臣という高い地位にあった。だが、夫はほかの女のところに行ってしまうし、夫から愛を十分に得られず、寂しい生活を送りながらも、息子を立派に育て上げた。
 道綱は従五位の最低ランクから始まり、ついには右大将になった。苦労しつつ、辛さに耐えて息子を立派に育て上げた母のお手本として藤原定家はこの人を選んだのだろう。
 当時は「通い婚」といって、男が女の家を訪れるのが習慣であった。子供を残すということが、ということが絶対的に必要なことだったのである。
 
 美人でありながら、さほど夫に愛されなかったということは、男にとっては堅苦しいとか、息が詰まるとか、口うるさいとか、何らかの点に於いて、夫の気に入らないことがあったのだろう。仕事が終わってくつろぎたいのに、矢継ぎ早に何か聞かれたり、夫が妻に気をつかわなければいけないような状態になったりするのでは、気が休まらない。それだったら、気楽に休める他の女のところに行ったほういいということになる。
 
 しかし、昔の貴族はそうできたかも知れないが、現代の我々にはとてもそんなことはできない。道綱の母ほどの美人を娶れる男などほとんどいない。また、女だって、うなるほどの資産を持っている大金持ちや、いつも美人に取り囲まれている美男子の妻になるのは至難の業だ。普通の男は、妻に何かを聞かれれば生返事ではなくきちんと答え、口うるさく何か言われても聞いたふりをして相槌を打つ。全く、男は辛いのだ。しかし、堪忍しなければならない。
 
 さて、藤原道綱の母が息子を立派に育て上げた母親としての評価を得られたのは、この世に生を受けた女としては、とても幸せなことだっただろう。いくら夫に愛されても、いくら世間の評価が高かろうとも、育児に失敗した例は山ほどある。特に、美人の母親としてよく知られた女優や歌手などが、息子を溺愛するあまり、完全に子育てに失敗したと見なされるに至るケースはよくある。
 
 女の役割は妻としてだけではなく、次世代の育成に大変な重荷を背負っているとも言える。私はたいして出世もしなかったが、母親にはきちんと育ててもらったおかげで、悪い道に進んだり、後ろ指を指されるようなことになったりせずに済んだ。母親の役割はとても大切なのである。
 藤原定家の百人一首の良さは、このようなことを思い出させてくれるところにある。日本人に生まれて良かった。
 
 さて、ここで道雅の父・伊周について書かねばならない。伊周は、道隆の息子なので、道長は叔父に当たる。この道長と権力闘争を繰り広げた。
長徳元年(九九五)四月十日の藤原道隆の死後、弟の藤原道長が内覧の宣旨を得た後に起きた政変があった。長徳の変(ちょうとくのへん)とは花山院闘乱事件(かざんいんとうらんじけん)ともいう。この結果、道隆の一族・中関白家が排斥される結果となった。
 
 道雅は26歳で従三位にまで上った。道雅は、第六十七代三条天皇の第一皇女当子(とうし)内親王との恋に落ちた。ところが、三条天皇はこの当子内親王を非常に可愛がっていて、良い結婚相手をさがしてやろうと思っていた。我が儘で身勝手な道雅は、三条天皇のお眼鏡にかなわなかった。
 
 三条天皇は当子を母の娍子(せいし)のもとに引き取らせ、当子内親王と道雅の手引きをした乳母の中将内侍までも宮中から追放した。当子内親王は落飾して23歳の若さで亡くなった。
 
 万寿元年(1024年)12月6日に花山法皇の皇女である上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝に死体が野犬に食われた姿で発見された。この事件は朝廷の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿二年(一〇二五)三月に右衛門尉・平時通が容疑者として法師隆範を捕縛する。検非違使が尋問するも隆範は口が堅く、七月二十五日になってようやく隆範は道雅の命で皇女を殺害したと自白する。この自白の連絡を受けて、権力者の藤原道長・頼通親子も驚嘆したという。
 
 道雅にはこのほかにも乱行があり、「荒三位(あらさんみ)」と呼ばれた。家柄に地位にも恵まれた男だったが、我が儘で身勝手な道雅を娘の相手にはふさわしくないと三条天皇は見抜かれたので、二人を引き裂いた。娘の当子内親王は辛かっただろうが、父親の三条天皇はもっと辛かっただろう。二人の愛の成就よりも、上の人間は正しくあらねばならないとの思いから、道雅のような我が儘で身勝手な男から、娘を守るために二人の仲を引き裂いたのだ。ただ、「今はただ」の歌は、当子内親王との恋は、単に容色に惹かれたもみの恋だったのか、それとも世の中に受け入れられなかった中関白家嫡孫としての挑戦だったのだろうか。やはり、悲劇的背景を全く無視することはできないようだ。
 

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