西行の足跡 その30

熊野の条
 
28「身に積もる言葉の罪も洗はれて心澄みぬる三重(みかさね)の滝」 
 山家集下・雑・1118
 我が身に積もった身業の罪も、狂言綺語である和歌を読み続けた口業の罪も、神聖な滝の水に洗い流された。三重の滝を拝むと三業の全てが濯がれるようで、心も澄んで意業の罪までが清められてゆく。
 
 身口意の三業とは、身業・口業・意業の三つを言う。人間の行為を身・口・意志の三種に分類したものである。
 業とは行為・造作の義で、善悪にわたる行為そのものだけでなく、その行為の余力としての習慣力が含ふくまれる。人の行為経験は、いかなるものでもそのまま消滅することなく必ずその余力を残し、それは知能・性格などの素質として保存・蓄積されると、仏教では教える。
 
「三重の滝」は大峰山中にある、千手・馬頭・不動の三つの滝を指す。「前鬼の裏行場」と呼ばれ修験道の厳しい行場だということだ。釈迦岳・深仙・小池の宿というのは行場のそれぞれの名前だ。西行の大峰修行については、「古今著聞集」に記載があるという。そのことは、後述する。
 
 西行は、大峰山中でいくつか和歌を詠んだ。
「此処こそは法(のり)説かれける所よと聞く悟りをも得つる今日かな」  
 山家集下・雑・1119
 法華経にいう霊鷲山(りょうじゅせん)ではなく、ここ大峰の転法輪嶽(てんぽうりんだけ)(釈迦ヶ岳)こそが、釈迦説法の地であると、説法されるのを聞いていると、今日は声聞(仏説を聞いて開悟した者)の悟りをえた気分になった。
 
「深き山に澄みける月を見ざりせば思ひ出もなきわが身ならまし」 
 山家集下・雑・1104
 大峰山中の深仙(しんせん)の宿(しゅく)で澄んだ月を見る。聖域の中でも最も神秘の地で、この神聖な光に触れることがなかったら、私にはこの世の思い出など何もないと言っていいくらいだ。
 
「いかにして梢の隙(ひま)を求め得て小池に今宵月の澄むらん」 
 山家集下・雑・1108
 鬱蒼と茂った樹叢から、どうやってここ小池の宿野梢にわずかな隙間を探し出したのだろう。今夜の月は格別に美しく澄んでいる。
 
 しかし、近世の地誌では、「三重の滝」は那智のほうが有名だそうだ。大滝として神格化される一の滝の上流には二の滝、三の滝がある。西行の「一の滝」の歌は下の歌だ。
 
「雲消ゆる那智のたかねに月たけて光をぬける滝の白糸」 
 山家集上・春・382
 雲が消えると那智山に月が高く昇り、白糸のように美しい滝の飛沫のひとつひとつに月光が映って、光の球を滝の糸が貫いたかに見える。
 
 そして、「如意輪の滝」の愛称で知られる「二の滝」については次の歌がある。
「木(こ)のもとにすみけるあとを見つるかな那智の高嶺の花を尋ねて」   
 山家集中・雑・852
 花山院が那智の滝に千日籠もって修行をなさったという暗室を偶然にも拝見することができた。那智の山に咲く花を見ようと思って入山したが、園花は花山院が「花見る人」になったという草庵にさいていたのである。
 
 この歌は次の歌を踏まえて詠まれた。
「木のもとをすみかとすればおのづから花見る人となりぬべきかな」 
 詞花・雑上
 樹下石上(じゅげせきじょう)を宿とするのは旅僧のならいではあるが、偶然にも桜の木の下に宿ることになって、日々花を見る生活になってしまいそうだ。
 
「花」は俗世への執着の象徴である。出家者は「花見る人」であってはならない。一方、出家者や旅人は、樹下を栖とする。だから、たまたま樹下が「花のもと」になった。そのことを苦笑したり、してやったりと思いながら詠んだ。「なりぬべきかな」にはそういう思いが表れている。
 

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