百人一首に選ばれた人々 その28
第五十五番歌 大納言公任 『千載集』雑上・一〇三五
「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」
The waterfall
dried up
in the distant past
and makes
not a sound,
but its fame
flows on
and on―
and echoes
still
today.
まず、英訳を見てみよう。短い句が連なっていることにまず気がつく。そして、全体としては長めである。それは、ごうごうと流れる滝の流れを思わせるような視覚的効果を生んでいる。このマクミランさんという人が、相当に深く和歌の世界を理解しているとことが、この和歌の英訳を読んだだけでも理解できる。
さて、この人は和歌、漢詩、管弦に優れていたので、「三船(さんせん)の才(ざえ)」と呼ばれていた。しかし、なんと裁判関係での業績こそが本邦初という名誉に輝くのである。刑事裁判の被告人への判決には懲役年数が書かれているが、この藤原公任こそが本邦で初め懲役年数を定めた人なのだ。
人は、いずれ必ず死ぬ。しかし、人が死んでも人々の記憶に残る人もある。ほとんどの人は死んでからも子孫がいれば子孫の記憶に残る。だが、その子孫が死に絶えると、もう記憶には残らない。だが、一部の人々は、芸術、技能、身体能力、などに関して長く人々の記憶に残る。それが、「名こそ流れて聞こえけれ」なのだ。
夏目漱石やベートーベン、モーツァルトのように輝かしい業績を残して長い間人々からの賞賛が受けられるような人になるのはいい。しかし、スターリン、ヒトラー、毛沢東、ポル・ポトのような大虐殺を起こした人間として、大勢の人々に忌み嫌われる人間とし記憶されるくらいなら、静かに無名で生きたほうがいい。私たちは慎み深く他人に迷惑をかけないように生きていくのがよいと思う。
第六十三番歌 左京大夫道雅 『後拾遺集』恋・七五〇
「今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな」
第五十六番歌に出てきた人物に、儀同三司母という人がいる。その人の孫に当たる藤原道雅がこの歌の詠み人である。
「今となってはあなたのことを諦めるしかない。その思いを人づてではなく、あなたに直接伝える手段はないかと思うばかりです」というのがこの歌の意味だ。ややこしい掛詞や技法は用いずに、真っ直ぐに相手の女に対しての思いをぶつけている。藤原の道雅の祖父は藤原道隆で、関白にまで上った。父親は儀同三司母と藤原道隆との間に生まれた藤原伊周だ。
道雅は26歳で従三位にまで上った。道雅は、第67代三条天皇の第一皇女当子(とうし)内親王との恋に落ちた。ところが、三条天皇はこの当子内親王を非常に可愛がっていて、良い結婚相手をさがしてやろうと思っていた。我が儘で身勝手な道雅は、三条天皇のお眼鏡にかなわなかった。
三条天皇は当子を母の娍子(せいし)のもとに引き取らせ、当子内親王と道雅の手引きをした乳母の中将内侍までも宮中から追放した。当子内親王は落飾して23歳の若さで亡くなった。
万寿元年(1024年)12月6日に花山法皇の皇女である上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝に死体が野犬に食われた姿で発見された。この事件は朝廷の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)3月に右衛門尉・平時通が容疑者として法師隆範を捕縛する。検非違使が尋問するも隆範は口が堅く、7月25日になってようやく隆範は道雅の命で皇女を殺害したと自白する。この自白の連絡を受けて、権力者の藤原道長・頼通親子も驚嘆したという。
道雅にはこのほかにも乱行があり、「荒三位(あらさんみ)」と呼ばれた。家柄に地位にも恵まれた男だったが、我が儘で身勝手な道雅を娘の相手にはふさわしくないと三条天皇は見抜かれたので、二人を引き裂いた。娘の当子内親王は辛かっただろうが、父親の三条天皇はもっと辛かっただろう。二人の愛の成就よりも、上の人間は正しくあらねばならないとの思いから、道雅のような我が儘で身勝手な男から、娘を守るために二人の仲を引き裂いたのだ。