西行の足跡 その29
27「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
元長参詣記
伊勢神宮にはどのような神が鎮座なさっているのか私には分からないが、ただただ畏れ多くてありがたくて、涙が流れ出てくる。
この歌はあまりにも有名で、絶対西行が詠んだ歌に違いないとみんなが思っている。しかし、西澤教授によれば必ずしもそうではないとのことだ。私は学者ではないので真偽のほどには興味がない。この歌をあくまで西行が詠んだという前提でこれから進めていく。
実際私が妻と共に伊勢神宮を訪れた際も、同じようなことを感じた。風がさっと吹いて、「おう、参詣にきたか」と神様が呼びかけてくださったかのような感じがして、大変嬉しかったし、ありがたかった。生粋の日本人であれば、宗教を頭から否定するような人でない限り、きっと同様の感慨を覚えることだろう。
西澤教授の解説によると、伊勢神宮が巡礼センターと転じたのは15世紀半ば過ぎからだそうだ。古代の天照大神は不可測の意思を持った「命令する神」だったが、中世になって人々の信仰対象として「応える神」に変貌する時期でもあった。
「天照月の光は神垣や引く注連縄の内と外もなし」
玉葉集・神祇・天照大神
アマテラスは月の光となって天下を普く照らし出していて、神垣に引かれる注連縄で聖域が境界されても、その内も外も全く区別はしていない。
伊勢神宮に参拝した際に、西行は境内には入れなかったので、境内の外で読経したという。天照大神の本地である大日如来は全ての人を救うのに、衰弱した神にはなぜ神前で祈ることができないのか。そのように思いながらまどろんでいると、夢に天照大神が現れてこの歌を告げたという。
さて、伊勢神宮が巡礼センターになったのは15世紀半ば過ぎからだと西澤教授は言うのだが、鎌倉時代の『勘仲記』には弘安10年(1287)の外宮遷宮に「参詣人幾千万なるを知らず」とあるとのことだ。だから、鎌倉時代中頃には多数の参拝者があったことになる。私は学者ではないので、細部のことは分からない。だから、解釈の違いだと理解しておく。
いずれにしても、西行を理解するには「境界」というのは大切なキーワードだ。この論考の冒頭でも触れたように、出家したことを西行は悔いてもいないが、出家したという達成感も持ち合わせていない。
聖と俗、明と闇、肉体と魂、さまざま境界を行ったり来たりして彷徨いつつ普遍的な高みに登ろうとしていたのだろう。