百人一首に選ばれた人々 その1

 先に私は、藤原定家がなぜ『小倉百人一首』を編纂したのか理解したいと思って、それに関することをまとめた。
 国語学者でも文学者でもない、全くの素人にはなかなか骨の折れる作業だったが、わたしなりの見解をまとめた。もちろん、参考にした書籍はある。 
 目﨑徳衛の『百人一首の作者たち』角川選書を読む内に、今度は歌人達がいくつかの範疇でまとめられていることに気が付かされた。そこで、改めて百人一首の作者一人一人あるいはグループ別に迫ってみたいと思うに至った。そして、もう一冊、百人一首について感銘を受けた『ねずさんの日本の心で読み解く百人一番歌』という小名木善行著、彩雲出版の本を紹介しておきたい。この二冊には私に多大な影響を与えてくれたし、私の考えを纏めるのに大いに役に立った。

 第一章
「万葉集」にゆかりのある歌人達
 
 一番歌 天智天皇
「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」
『後撰和歌集』巻六秋歌中302
 秋、田んぼ近くの仮小屋の屋根を覆うむしろの目は荒いしたたり落ちる露で、わたしの袖はぬれてしまったよ

 小倉百人一首を通してのテーマに「古き良き平安時代」がある。鎌倉時代を四十年間見て、定家には、平安時代を惜しむ気持ちがあったのではないかと推測される。
 この和歌集のテーマ「時代」を意識させるため、天智天皇を巻頭に持ってきたとのではないかと推測される。
 この歌は、『万葉集』に詠み人知らずとして載っている歌である。『万葉集』巻十2174の、
「秋田刈る 仮庵を作り 我が居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける」(作者未詳歌)が元歌であると指摘されている。

「百人一首」は勅撰集(天皇や上皇の命によって編纂された)から抜粋する方針で編まれているので、『万葉集』から選んだというわけではない。時代とともに変化した万葉歌が勅撰集に収録され、それを百人一首に選んだという具合だ。

 しかし、ここで一つの疑問が湧く。なぜ天智天皇の和歌が第一首目に取り上げられたのだろうか。この歌は、農事の苦労を詠み込んでいるが、至尊の存在である天皇が、農事の苦労を詠むというのは落差が大きすぎるから、みんな違和感を覚える。

 一説によれば、平安時代には天智天皇は皇室の先祖と仰がれていたという話がある。しかし、素人の私などは、天智天皇のみならず天武天皇でも良いではないかと思ってしまう。
 さて、目﨑徳衛の『百人一首の作者たち』角川選書によると、契沖は、「荷前」、「国忌」の二つの儀礼を挙げた。「荷前」というのは、その年の諸国の貢ぎ物をお供えする行事を指し、荷を霊前に奉るという意味だそうだ。その際、特定の陵墓に限り、公卿を首班とする使節団が任命され、天皇自らが県令門に出御して儀式が行われたという。そのような特別の陵墓を「近陵」という。その「近」は場所が都に近いとう意味ではなく、天皇の近親という意味である。(『古事記伝』巻二十)
 その近陵として平安時代初期に「十陵四墓」が制定されたという。そして、その筆頭が天智天皇の山科の山陵なのである。続いて施基皇子(志貴皇子)、光仁天・桓武天皇以下が十陵、藤原不比等以下が四墓となる。
 平安朝の国家体制の枢軸である皇室と藤原氏の特別な地位を示すのだが、藤原氏は不比等、皇室は天智天皇が祖先としてあるのだ。そして、天智・光仁・桓武の三陵だけはずっと不変だったという。

 奈良時代はずっと天武系の天皇が続いたが、七七十年、称徳天皇が崩御すると、大問題が起きた。称徳天皇は生涯未婚で跡取りがいらっしゃらなかった。右大臣吉備真備が発言した。
「これでは皇室が途絶えてしまう。どうしたものか?」そこで、藤原百川が発言する。藤原式家の祖である藤原宇合の息子である。
「私は白壁王を推します」
 白壁王はすでに62歳のご高齢であり、しかも天智天皇の孫です。言ってみれば現政権にとって敵方にあたる。壬申の乱で勝利した大海皇子が天武天皇として即位して以来、しばらく天武系の天皇が続いていた。
 藤原百川は左大臣藤原永手・内大臣藤原良継らと共に白壁王の擁立を強くおしすすめた。一説によると、白壁王擁立に反対する吉備真備の前で偽の遺言を読み上げてまで、藤原百川は白壁王を推したという。七七十年、白壁王は光仁天皇として即位した。
 これで、平安朝は天智系天皇当然のことと受け止められる。

 そして、天武天皇である。
「大君(おほきみ)は 神にし坐(ま)せば 赤駒(あかこま)の 匍匐(はらば)ふ田居(たゐ)を 都(みやこ)となしつ 大伴御行(おおとものみゆき)
 万葉集 巻十九 四二六〇番歌

 つまり神格化された天皇である。ところが、平安朝では神格化された天皇は歓迎されなかったのである。
 目﨑徳衛の『百人一首の作者たち』角川選書から以下を引用する。
 引用ここから
 しかし、平安貴族にとって、天皇は人間以上の超越的存在ではなかった。すでに、奈良時代にさえ、「明神(あらみかみ)と御宇(あめのしたし)らす日本の天皇ヶ」などという公称はともかく、聖武天皇が「三宝(ほとけ)の奴(やつこ)」と称したように、超越的存在が別にあることははっきり自覚されていた。まして右の公称の出発点をなす記紀的天皇観が天智天皇系皇統によって放棄された後ともなれば、天皇と貴族の距離はきわめて近くなった。君臣の間を流れる豊かな人間的親近感こそ、いわゆる「王朝のみやび」の核心であると、私は思う(小著『王朝のみやび』)。
 引用ここまで

 ここまで読んで、百人一首の冒頭の歌が天智天皇でなければならなかった理由が理解できた。

 さて、持統天皇と山部赤人の作品は、「古今和歌集」から選ばれているが、その元歌は万葉集にある。ただし、どちらも表現がやや異なっている。
また、大化の改新によって「シラス」の統治形態が完成したと言えるという説がある。大化改新以前は、天皇や豪族らは各自で私的に土地・人民を所有・支配していたが、全ての土地・人民は天皇(公)が所有・支配する体制の確立、すなわち私地私民制から公地公民制に移行した。万民が天皇の民になるのであるから、だれも権力者の私有民にはならない。貴族や平民という身分の違いはあっても、支配と隷属による上下関係はなくなったのだ。

 古代の日本では主人と部下の関係には、「ウシハク」という形態と「シラス」という形態があった。「ウシハク」とは、「主人(うし)博く(はく)」と書く。つまり、主人が部下を私的に所有し支配するということだ。その反対が「シラス」統治である。つまり、主人が部下を私的に支配することなどなく、天皇の下に万民が平等に接することである。もちろん、身分の違いはあるのだが、だれかが誰かの私的支配者あるいは隷属者にはならないということだ。
 
 支那大陸で行われていたのは、この「ウシハク」の統治であったと言えるだろう。皇帝が国と国民を所有物と見なし、私的に支配し贅沢の限りを尽くし、最後に反乱によって倒れ、力によって新たな皇帝が立つという治乱興亡の歴史しかない。北朝鮮の現実も独裁者による恐怖支配であり、韓国も大統領の権限の強さや前大統領が逮捕されるどの事実を考えると、政権交代は王朝交代とほぼ同じことであると言い得る。つまり、独裁体制と何ら変わりがない本質であると言えよう。ロシアにしても形式上は民主主義の形を取っているが、長期にわたって政権の座にあるプーチン大統領は、思考も行動も大統領というよりも帝王、つまりツァーリである。

 閑話休題。
 さてここで、『大祓詞』(おおはらえのことば)について触れたい。
 大祓詞は、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つである。もともと大祓式に用いられ、中臣氏が専らその宣読を担当したことから、中臣祭文(なかとみさいもん)、中臣祓詞(なかとみのはらえことば)、中臣祓(なかとみのはらえ)ともいう。
 
 大祓詞に以下の一節がある。(宣命書き)
「皇御孫命波 豊葦原水穂國乎 安國登 平介久知 食世登」。読み方は、「すめみまのみことは とよあしはらのみづほのくにを やすくにと たひらけく しろしめせと」となる。
 
 さて、古語では「しろしめす」とは現代語では「お治めになる」という意味である。古語の「しる」は、物事を理解し自分のものとしていることである。漢字では、「領る」、「治る」と書く。そして、「しらす」は「しる」の未然形に尊敬の助動詞「す」が付いた形で、意味は「お治めになる」ということである。
 日本でははるか昔、古事記の「国譲り神話」によって、すでにこの「ウシハク」が否定されていた。「国譲り神話」と言うと、「国を無理やり取られた話だな」と思われがちだが、そうではない。


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