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百人一首に選ばれた人々 その21

 第四十六番歌 曽禰好忠 『新古今集』恋・一〇七一
「由良の門を渡る舟人かぢをたえゆくへも知らぬ恋の道かな」

 この人は歌人としては非常に優秀で斬新な歌を詠んだという。しかし、一方では大変プライドが高かったという。
 寛和(かんな)五年(985年)2月13日円融上皇が船岡に御幸になり、紫野で歌会が開かれた。その会には曾禰好忠は招待されていなかったにもかかわらず、招待席に座った。
 自負心の強い人間だから、「俺が招待されるのは当然のことだ」という考えだったのだろう。しかし、招待されていない人間がそのようなことをしてはいけないというのは常識の範囲で考えればすぐに分かることだ。結局は招待されていないので追い出された。

 普通の人でさえも、「俺が俺がの我を捨てておかげおかげの下で暮らす」(良寛)という態度に徹するのは非常に難しい。人はどうしても自分の意見を通したがるし、自信のある人ほどその傾向が強い。しかし、謙虚さをなくしてしまえば他人に嫌われるのは当然だし、自らの身を滅ぼす事になりかねない。

 しかも、偏狭な性格で自尊心が高かったことから、社交界に受け入れられず孤立した存在であったという解説があるくらいの人だ。これではみなから嫌われない理由がない。
 この歌を配置したことで、「俺が、俺が」という思い、つまり「我を張る」姿勢を「かぢを絶えゆくへもしらぬ」と例えた。そして、この作者に対してそこまで我を張るというのは人の道を見失っていると糾問したのだ。藤原定家さんはたいした人物だと言わざるを得ない。

 第四十九番歌 大中臣能宣 『詞花集』恋上・二二五
「御垣守衛士の焚く火の夜は燃え昼は消えつつものをこそ思へ」

 この歌にある「御垣守(みかきもり)」とは何か。諸国から集められて、宮中の各門で不寝番をしている衛士のことである。天皇を守るためにずっと警護を続けるのだ。
 現在皇居を警護するのは皇宮警察であるが、彼らは公務員である。しかし、「御垣守」は民間人である。民間人がどうしてこのよう厳しい務めに耐えたのか。彼らは、天皇の「おほみたから」として大切にされていることの幸せを思い、感謝の心を持って衛士となったのだ。衛士になることは、一族の誇りでもあった。もし、天皇が国民を「おほみたから」と思わずにいたのなら、このように長く続くはずがない。天皇に感謝するから衛士という厳しい務めに耐えるのだ。

 天皇は毎年1月1日(元日)の早朝、歳旦祭に先だって、宮中・神嘉殿の南庭で天皇が天地四方の神祇を拝する「四方拝」と呼ばれる儀式からご公務をなされる。その時、以下のような呪文を唱えられる。
 賊寇之中過度我身(ぞくこうしちゅうかどがしん)(賊寇は必ず我が身を通して下さい)
 毒魔之中過度我身(どくましちゅうかどがしん)(毒魔は必ず我が身を通して下さい)
 毒氣之中過度我身(どくけしちゅうかどがしん)(毒氣は必ず我が身を通して下さい)
 毀厄之中過度我身(きやくしちゅうかどがしん)(毀厄は必ず我が身を通して下さい)
 五危六害之中過度我身(ごきろくがいしちゅうかどがしん)(五危六害は必ず我が身を通して下さい)
 五兵六舌之中過度我身(ごへいろくぜつしちゅうかどがしん)(五兵六舌は必ず我が身を通して下さい)
 厭魅之中過度我身(えんみしちゅうかどがしん)(厭魅は必ず我が身を通して下さい)
 萬病除癒(まんびょうじょゆ)(民のあらゆる病は、除かれ、癒やされますように)、
 所欲随心(しょよくずいしん)(民が欲することは、心のままに全てかないますように)、
 急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)(この旨、すみやかに、律令のごとく正確に・しっかりと行われますように)

 つまり、「おほみたから」の民草が平和に暮らせるようにと、我が身に辛い試練を一手に引き受けるお覚悟のほどを神様にお誓いになるのである。そようにまで民を労ってくださる天皇という至高の存在に感謝するのは当然のことなのである。だから衛士(えじ)が務まる。

 苦しいときには御垣守の焚く火を思い、衛士たちが厳正に務めを果たしていることを思いなさい。無私の精神を培いなさい。それがこの歌に込められたメッセージなのだ。
 我執に囚われた源重之は出世することなく世を去ったが、無私の精神に徹した大中臣能宣は「朝臣」という皇族に次ぐ地位を得た。

 このことを日本の国民に知ってもらうために、藤原定家は正反対の二つの歌をこのように配置した。恐るべし、藤原定家の深謀遠慮。

 さて、百人一首の前半の三分の一以上もがこれら古代氏族の末裔が詠んだものだ。後半五十首は平安後期になるので、古代氏族の大部分が影を潜めてしまう。


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