詩歌によせて1
このエッセーは、私が読み散らかしてきた詩歌の中から、特に私の胸を打ったもの、あるいは心に響いたもの、好きだと思ったもの取り上げて、それに纏わる自分の思いを記したものである。書いたものは時系列的にきちんと並んでいるわけでもなく、テーマを決めて書いたものでもない。
ただ、徒然草の作者にならって、様々な思いを漫然と書いた。したがって、非常に個人的な思い入れだけで書いた。専門家の意見などは全く参考にせず、自分の胸に響いた理由や私個人の生き方などを通じて、共感を覚えた詩歌についての思いを書いた。なお、文章の中で引用が長かったり、いくつもの文章が入り組んでいたりするので、題名のみは太字で示した。
この文章を書くに当たって、大岡信の『折々のうた』にいくつもの示唆をえたが、大岡信の解釈をそのまま書いたというわけでもない。やはり、私なりの解釈をした上で書いたものである。
伝説
スペインのバレンシア郊外のアルブフエラ湖を娘と一緒に訪問したときに、ふと会田綱雄という詩人の「伝説」という詩を思い出した。今日はその詩を紹介したい。
伝説 会田綱雄 詩集 『鹹湖』(かんこ)より
湖から
蟹が這いあがってくると
わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
山をこえて
市場の
石ころだらけの道に立つ
蟹を食うひともあるのだ
縄につるされ
毛の生えた十本の脚で
空を掻きむしりながら
蟹は銭になり
わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
山をこえて
湖のほとりにかえる
ここは
草も枯れ
風はつめたく
わたくしたちの小屋は灯をともさぬ
くらやみのなかでわたくしたちは
わたくしたちのちちははの思い出を
くりかえし
くりかえし
わたくしたちのこどもにつたえる
わたくしたちのちちははも
わたくしたちのように
この湖の蟹をとらえ
あの山をこえ
ひとにぎりの米と塩を買い
わたくしたちのために
熱いお粥をたいてくれたのだった
わたくしたちはやがてまた
わたくしたちのちちははのように
痩せほそったちいさなからだを
かるく
かるく
湖にすてにゆくだろう
そしてわたくしたちちのぬけがらを
蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
むかし
わたくしたちのちちははのぬけがらを
あとかたもなく食いつくしたように
それはわたくしたちのねがいである
こどもたちが寝いると
わたくしたちは小屋をぬけだし
湖に舟をうかべる
湖の上はうすらあかるく
わたくしたちはふるえながら
やさしく
くるしく
むつびあう
吉本隆明はこの詩を読んで「蟹を食うひともあるのだ」という一行が効いていると表した。私もそう思う。戦時中、会田は南京特務機関という特殊な行政機関に配属されていた。そのとき「伝説」の発想をえたという。そのことを会田綱雄がこんなふうに書いているので、少し長くなるが引用しよう。
「ひとつの体験として」より
前略
「(南京大虐殺の目撃話のこと)その話のあとで、戦こういうことを聞いた。戦争のあった年にとれるカニは大変おいしいということ。これは日本時がそういうのではなく、占領され虐殺された側の民衆間の、一つ口承としてあるということ。そのことを特務機関の同僚が教えてくれたのだ。戦争のあった年にとれるカニがおいしいというのは、戦死者をカニが食べるので、脂が乗っておいしいというのである。はたしてカニが、人間そのままの形ではなく、腐乱しプランクトンのようになった人間をであろうが、食べるかどうか、調べてみたことはないが多分食べるだろうと思う。だから、中国人は、戦争中は、よほどのことがなければカニを食わなかったのではないかと思う。」
後略
しかし、歴史的には死那狂惨党が大々的に宣伝している南京大虐殺などはなかったのだということは、私は主張しておきたい。
ここに書かれてあることが本当かどうかは会田綱雄本人にでも確認しない限りは、分かりはしない。しかし、会田綱雄という人は、寺山修司のような虚構に満ちた作品とはほど遠い人柄だから、信用できるのではないかと思う。私は、寺山修司の虚構地獄も好きだが。
そうしてみると、なるほどこの一行は確かによく効いている。そして、読み進める度に、命の尊さ・生の営みの哀しさや愛おしさが一度にこみ上げてきて、私の視界は塩気のある液体で満たされてしまいすっかり霞んでしまう。命は、他の命を奪うというごく単純明快な真実を忘れて暮らしてはいけない。私が昨晩食べたイカやエビにも命があり、ナスビやキャベツにも命がある。命があるから育つ。育ったまま放置しておけば、やがては枯れてしまう。他の命をもらうことで、私達動物は命を繋いでいるが、人間だから当然だと思うのは傲慢だろう。日本人は、だから、ご飯を食べるときには「頂きます」という。それはまさにご飯を食べるときに、命を頂いているのだという自覚を持っていたから、こんな美しい言葉が生まれた。
しかし、この詩を読んでからでも、甲殻類が好きな私は、だからと言って甲殻類が食べられなくなったということはない。戦争がない、平和な時代の甲殻類の美味に舌鼓を打っても罰は当たるまい。
みなさんも、この詩のような命の尊さを教えてくれる詩歌や話をお持ちであろう。ときには、それを取り出して読み直せば、この世の中をあくせく生きるのが、ばからしくなるはずだ。余裕を持ってゆっくりと、生きたいものだと思い直すことだろう。