詩歌によせて9
伊東静雄 『詩集 春のいそぎ』より「夏の終」
月の出にはまだ間があるらしかつた
海上には幾重にもくらい雲があつた
そして雲のないところどころはしろく光つてみえた
そこでは風と波とがはげしく揉み合ってゐた
それは風が無性に波をおひ立ててゐるとも
また波が身体を風にぶつつけてゐるともおもへた
掛茶屋のお内儀はつかれてゐるらしかつた
その顔はま向きにくらい海をながめ入つてゐたが
それは呆やり牀几にすわつてゐるのだつた
同じやうに永い間わたしも呆やりすわつてゐた
わたしは疲れてゐるわけではなかつた
海に向かつてしかし心はさうあるよりほかはなかつた
そんなことは皆どうでもよいのだつた
ただある壮大なものが徐かに傾いてゐるのであつた
そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた
詩人の鋭い感性が、「ある壮大なものが傾いて」いるのを掴み取ったのである。説明するまでもなく、それは徐々に敗戦の色が濃くなっていた大東亜戦争のことであったろう。
伊東静雄は日本浪曼派に所属していた。日本浪曼派は戦後右翼的集団だとして糾弾されたが、文学作品は作者の政治思想が左翼的だとか右翼的であるとかには関係がなく、良いものは良いし、価値が低いものは低い。ただ作品の質のみが善し悪しを決めるに過ぎない。とはいうものの、ある程度はリベラルでないとノーベル賞は取れないような傾向はある。余りにもナショナリストなものは、他国の人間からは理解しにくいという事情もあるのだろうが。