源実朝『金槐和歌集』から
番号などは岩波文庫『金槐和歌集』斎藤茂吉校訂版に基づく。
古典の研究家でも専門家でもなんでもない一般人の私が、源実朝について何か書くのはおこがましいことであるのは分かっているが、どうしてもこの好きな歌人のことについて書かずにはおれないので、書くことにした。
まず、金槐和歌集(きんかいわかしゅう)について。
「金」は「鎌倉」の「鎌」の字の偏。「槐」は「えんじゅ」という木の名前で、周の時代にこの木を朝廷に三本植え、政治的な最高位・三公(日本でいう太政大臣・左大臣・右大臣)のおわすべき位置を示したことから大臣の意味を持つ。つまり、金槐とは実朝のことを指していて、実朝が右大臣に位したのは公暁に暗殺される直前のことだから、金槐和歌集は、実朝の死後に家集につけられた名称ということになる。
本心はいかに
さて、鎌倉幕府三代将軍の源実朝は、武家としては初めて実朝が右大臣という高い地位に就いた。定家に和歌を学ぶことで、和歌の「察する」文化を身につけた実朝は、朝廷と武家の融和を図り、武家同士の争いを極力回避するよう努めた。
庭の梅を覧(み)て、禁忌の和歌を詠じたまふ
出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな(吾妻鏡)
私が出て行ったなら、たとえ主人のいない家となってしまうとしても、軒端の梅よ、春を忘れずに咲いてくれ。
禁忌の和歌とは忌むべき和歌である。「主なき宿」といった不吉な言葉を用いているゆえにこう言う。
この歌は次の二つの歌を本歌取りしたものかと思われる。
菅原道真 『拾遺集』
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
式子内親王 『新古今集』
ながめつるけふは昔になりぬとも軒端の梅はわれを忘るな
『吾妻鏡』の建保七年(1219)正月二十七日の記事より。
この日、実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣し、同日夜、神拝を終えて退出する時、石階の際(きわ)に潜んでいた甥の公暁に斬りかかられ、暗殺された。その記事に続いて、当日出立の際の「変異」を語る条に引用された歌である。『金槐和歌集』には見えず、『吾妻鏡』のほか『六代勝事記』などにも見える。
公暁という男は、利用されただけに過ぎない。後ろで糸を引いていたのがどのような勢力であったのはかおよそ想像が付く。それにしても、実朝の和歌の才能は一流だったと私は思う。
源実朝の歌の中で最も有名なのは、次の歌であろう。
舟
五七二 世中は常にもがもな渚こぐ海人の小舟の綱手かなしも
この歌は、百人一首にも入っているし、『新勅撰集』にも入っているので、源実朝と言えば、この歌を思い起こす人が多いだろう。「世の中」は、「今自分が生きているこの世界」という意味であり、「常に」は「永遠に変わらない」という意味である。今と未来を同時に一首に詠み込むということ自体が面白い発想だと思う。
さて、「渚漕ぐ海人の小舟」とは、本人の意思には関係なく第三代将軍にならねばならなかった実朝の本心を表しているのではないか。実朝の実兄である頼家は第二代将軍に就いたが、幕府内の闘争で将軍の地位を追われた。母親の北条政子の実家である北条家と、他の一族の間で次々に争いが起きた。
元々武士は「令外の民」である。したがって、非課税特権を有していた。武家の棟梁である征夷大将軍が朝廷から朝廷政治の枠組みに入れてもらったことにより、武士は「令外の民」から「天皇の民」になった。
実朝は、鎌倉武家政権は天皇の下にあるということを統治の中心にした。それが、実朝以降も続く。だから、北条執権政治に於いても、京都から将軍を迎え入れた。
「御成敗式目」第四十一条にはこうある。
「奴婢雑人事(ぬひぞうにんのこと)」として「無其沙汰過十箇年者、不論理非不乃改沙汰」つまり、「十年以上使役していない奴婢や雑人は自由である」と書かれている。使役するということは、賃金を支払って雇っているという意味である。それ以外の一般民衆は自由な民である。
ところで、かつて天皇に取って変わろうとした者は一人もいなかったということが日本の歴史の特徴だろう。乱暴なイメージしかない平清盛でさえも、そんなことは考えもしなかった。「保元の乱」を招いた藤原忠通は摂関家としての藤原家の存続を第一に考えただけだし、平清盛も源頼朝も、みんな一族の存続と繁栄を考えて争ったに過ぎず、天皇に取って代わることなど考えても見なかった。
しかし、それでも世の中は争いが絶えず平穏な世界は戻らない。式子内親王を失い、実朝を失い、国の形が崩れているのを見ていた定家の絶望はいかばかりだっただろうか。だからこそ、定家は「百人一首」を編纂したのだろう。私にはそのように思えてならないのである。