源実朝『金槐和歌集』から その4

 巨大な不幸
 
 堀田善衛の『方丈記私記』にはこのような文がある。(本文には番号は振っていないが、便宜上私が番号を振った。)
 引用ここから
 無常を
 七一一 かくてのみありてはかなき世の中を憂しとやいはむ哀とやいはむ
 七一二 うつつとも夢とも知らぬ世にしあれば有りとてありと頼むべき身か
 わび人の世にたちめぐるを見て
 七一三 とにかくにあれば有ける世にし有ば無とてもなき世を経るかも
  世間つねならずというふことを人のもとにて詠み手つかはし侍りし 
 七一五 世の中にかしこきこともわりなきも思ひしとけば夢にぞありける
 
 大乗作中道観歌
 六五三 世の中は鏡に映る影にあれやあるにもあらず無きにもあらず
 
 これはすべて実朝の歌であるが、要するにどれもこれも、何か巨大なものにぶつかっての、わけのわからぬ歌である。わけはわからなくても、実朝、と言わなくても、とにかくこの歌の作者が、どう処理もなんとも出来がたい巨大な不幸にぶつかっていることだけはよくわかる歌である。
 先に、実朝の時代観として、「黒」という異様な題を持つ歌、
 七○五 うば玉のやみのくらきにあま雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなり
 という、その真「黒」な闇を切り裂く雁の声をうたった歌を引用したことがあったが、先の数首の歌にしても、そのわけがわからなさは、歴史を放棄してしまったことから来ていることだけはたしかだろう。
 引用ここまで
 
 堀田善衛は。この「うば玉の」の歌を、「これではまるでどこもかしこも真ッ暗、真の闇である。その『黒』い闇のなかで見えるもの、いや聞こえるものもまた無気味な雁の鳴き声だけである。」と評した。
 一方、小林秀雄は「実に暗い歌であるにも拘わらず、弱々しい者も陰気なものもなく、正直で純粋で何か爽やかものさへ感じられる。」と書いた。
 
 確かにこの「うば玉」の歌は異常なくらいの暗闇しか考えられない。そして無、その闇は実朝その人の固有の闇であったのだろうと私には思われる。
 さらに、「黒」に対して「白」が題に入った歌もある。
 
 白といふことを
 類從本には「白」と題し「雜」の部にあり。眞淵この歌に○を附す。
 三七八 かもめゐるおきのしらすにふる雪の晴れ行く空の月のさやけさ
 
 黒と白の対比は意識してのものではないように私には思われるのだが、どうなのだろう。古典文学や和歌の専門家や研究家ではない私には分からない。
 

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