西行の足跡 その33

四国の条
 
31「ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば松はひとりにならんとすらん」  
 山家集下・雑・1359
 一所不住の隠遁生活の我が身としては、こんなにも住み心地の良い草庵もいずれ住みづらくなって出て行くだろう。そうしたら、松はまた一人になってしまうのだろうか。
 
「久に経て我が世の後をとへよ松後しのぶべき人なき身ぞ」 
 山家集下・雑・1358
 弘法大師同様に永遠の命を生き続けて、私の後世を弔っておくれ、私は大師の跡を慕ってここまで来たが、私を偲んで来る者は誰もいないのだから。
 
 この二つの歌は、崇徳院墓参の後に讃岐国善通寺のほとりに庵を結んだ際に詠んだ。そこは弘法大師の生誕の地でもある。ここに詠まれた「松」は「久の松」と呼ばれ、西行庵跡地を伝承する玉泉院境内にあった。玉泉院には「玉の井」とか「花の井」と呼ばれる井戸がある。その井戸には次の歌が刻んであるという。
「住み馴れて心も清く結ぶ手に深くも契る玉の井(ゐ)の水(みづ)」 西行
 しばらくこの庵に澄んでいると心身ともに清らかになってゆくのが分かる。玉の井の水を手で掬って、いよいよ弘法大師との深い結縁を実感するのだ。
 ただし、この歌は西行が詠んだとは確認できていないそうである。
 
「谷の間にひとりぞ松も立てりけるわれのみ友はなきかと思へば」 
 山家集中・雑・941
 峰続きから外れて谷に一本だけ松が立っている。世の中から外れて孤独なのはひとり私だけかと思っていた。
 
 この「谷の松」というのは白楽天の「澗底松(かんていのまつ)」という次の詩に由来する。
「松有リ百尺大キサ十囲 生ジテ澗底ニ在レバ寒ク且ツ卑シ 澗(たに)深く山險シクシテ
人路絶エ 老死スルモ 工(こう)の之ヲ度(はか)ルニ逢ハズ 天子ノ明堂、梁木ヲ欠ク 
此ニ求メ彼(かしこ)ニ有レド 両(ふた)ツナガラ知ラズ」 
以下略 白氏文集・新楽府(しんがふ)
 
 この詩の意味するところは、有用な人材が人目に付かず埋もれていることをいう。これに似たものが和歌にもある。
「数へ知る人なかりせば奥山の谷の松とや年を積ままし」 
 千載集・雑上・藤原道長
 私の年をちゃんと数えて60歳と知る人が居なかったならば、奥山の谷の松のようにだれにも気づかれず、いたずらに年を重ねただけで祝ってもらうこともなかった。
 
 上の二つの「谷の松」は不遇意識の表れである。『古事記』の景行天皇の段には、ヤマトタケルが詠んだ「尾津前の一松」という歌がある。
 
 引用ここから
 尾津前(オツノサキ)の一松(ヒトツマツ)のもとに到りまししに、先に御食したまひし時、其地に忘れたまひし御刀、失せずてなほありき。ここに御歌うたひたまはく、「尾張(オハリ)に 直に向へる 尾津(オツ)の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 大刀佩けましを 衣着せましを 一つ松 あせを」とうたひたまひき。
 引用ここまで
 
 この歌は孤高意識の表れである。
 西行は、不遇意識を孤高意識に転換することで、「世をも捨て、世にも捨てられる」ことで本当の隠遁になるのだという明遍の言葉の通りに、隠遁歌人の道をさらに踏み固めた。
 
「あはれなり同じ野山に立てる木のかかるしるしの契りありける」 
 山家集下・雑・1369
 深く感動してしまった。同じように野や山に生えている木でありながら、 
 この松だけは大師誕生を記念して特別の目印が付けられるのは、それ相応の仏縁がそもそもあったことになる。
 
 

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