百人一首についての思い その57
第五十六番歌
「あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな」
和泉式部
もうじき私はこの世から去りますが、あの世への思い出に、もう一度あの人に会いたいのです。
As I will soon be gone,
let me take one last memory
of this world with me―
May I see you once more,
may I see you now?
『後拾遺集』(763)にこの歌が掲載されている。詞書きには、「心地例ならず侍りける頃、ひとのもとにつかはしける」とある。
この歌を詠んだときには、和泉式部はすでに出家していて、47歳くらいであった。当時の平均寿命から考えれば、晩年の歌だ。だのに、死ぬ前にもう一度あの人に逢いたいと言うのだ。
和泉式部の夫になった人や恋人は数が多すぎて、彼女がだれに逢いたいと思ったのかは分からない。しかし、彼女のこの歌はとても強い力を持っている。この歌を本歌取りした有名な歌が二つあり、どちらも大変有名な歌人の歌である。
「いかでわれこの世のほかの思ひ出に風をいとはで花をながめむ」
西行 山家集上 春・108
「心もてこの世のほかを遠しとて岩屋の奥の雪を見ぬかな」 藤原定家
私は個人的にはこの和泉式部という歌人の歌が好きだ。
「白露も夢もこの世もまぼろしもたとへて言へば久しかりけり」
「暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月」
さて、最初に結婚した相手は橘通貞という人だった。通貞の赴任先が和泉国であったため、和泉式部と呼ばれるようになった。通貞との間に生まれたのが小式部内侍である。「大江山いくの野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立」と言う歌で有名な人だ。
そして、和泉式部は都に帰るとすぐに夫とは別居した。それからは不思議な運命翻弄されることになる。冷泉天皇の第三皇子の為尊(ためたか)親王に見初められたのだ。和泉式部の父親の大江雅致(まさむね)は、親王との交際を知って激怒した。まだ人妻であり、娘もいるのだ。父は親王と別れるように娘を説得したが、娘は応じない。仕方なく、父は娘を勘当してしまう。やがて通貞とは離婚をする。そして、為尊親王と一緒に暮らし始める。だが、為尊親王は26歳の若さで夭逝した。
そうこうしているうちに、為尊親王の弟君の帥宮(そちのみや)敦道(あつみち)親王が現れた。帥宮親王がある日和泉式部を訪ねてきた。その夜二人はこえてはならない一線を越えた。さらに悲劇が和泉式部を襲う。帥宮親王は27歳の若さで夭逝した。それからの和泉式部は生きる屍となって、今で言う引き籠もりのような状態になった。
それを見かねたのが一条天皇の中宮の藤原彰子(しょうし)であった。和泉式部の才能を惜しみ、自分の元で仕事ができるように計らってくれたのだ。しかし、周囲の女官達の目は冷たかった。
やがて十年月日が経って、藤原保昌という50歳を過ぎた男からの縁談があった。当時和泉式部はすでに30代である。保昌は全てを承知で結婚を申し込んだのだ。だが、保昌との間にできた男の子が元服すると同時に、和泉式部は尼寺に入った。過去の全てを捨てて仏に仕えようと考えたのだ。
それにしても、和泉式部という人の人生についての感想を聞かれたら、なんとも「壮絶な人生だ」という答えしか出てこない。私の周囲には、このような壮絶な人生を歩んだ人はいなかったし、普通は私と同じように「そんな人はいなかった」と答えるだろう。だが、実際にいたのである。
恋多き女だとかドン・ファンとか呼ばれる人たちは、きっと断続的に水を渇望する人のように、理想の恋を追い求めているのだろう。理想の恋だと思った瞬間に、それが逃げ水のようにするりと抜けていく。だから、また新しい理想の恋を追いかける。その繰り返しなのだろうか。私のような女に縁のなかった男としては、そのような生活は疲れるだろうなと思うのだが。人はそれぞれなのだから、どうでもいいが。
ともかく、一人の女の壮絶な一生と時代背景までも、たった三十一文字の中に盛り込むことができるだということを、藤原定家はこの歌を通じて言いたかったような気がする。
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