百人一首に選ばれた人々 その44
第六十九番歌 能因法師
「嵐吹く御室の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり」
能因法師は俗名を橘永愷(ながやす)と言い、近江守だった橘忠望(ただもち)の子である。平安時代の大学寮で学び、特に優秀な学生だけがなれる文章生(もんじょうせい)になったが、26歳の時に出家する。そして、漂白の歌人として生きていく。
この歌のキ―ワ―ドは「三室の山」である。「室」というのは外気を防ぐための室である。そして、三室山は別名を神南備山という。つまり、風雨を防いで神々が降臨する山ということになる。では、「嵐吹く」とは何だろうか。
この歌の配置は第六十九番目である。その前は三条院の歌である。三条院は、望月がかけないと傲慢に言い放った藤原道長との対立によりついに退位を余儀なくされた。ところで、錦とは絢爛豪華な―に仕立てられた絹織物のことである。
そうすると、神々が降臨する三室山はそのまま朝廷であり、その朝廷に嵐が吹くということは、政争があるということだ。そのような政争でさえも、絢爛豪華な錦と同じようだと言うのだ。
支那の歴史を見てみると、なんともおぞましい。皇帝やその一族が、あいつらは危険な勢力だと判断した勢力は、一族郎党全員処刑される。『史記』によると漢の高祖である劉邦の皇后呂太后は、戚夫人の両手両足を切り、目耳声を潰し、厠に投げ落として それを人彘(人豚)と呼ばせ、さらに恵帝を呼んでそれを見せたため、彼は激しい衝撃を受け、以後酒色に溺れるようになり早世したという。
日本では武士の間では、復讐の恐れがあるため男の子は処刑されたが、女児は出家させるなどして寛大に処分した。しかし、貴族の間ではそのようなことはせず、左遷程度であった。だから、外国と比較すると、まさしく「錦」のような政争なのだ。
ところで、私事で恐縮だが、私は本当に死那が大嫌いである。現在の死那狂惨党の酷い統治を見ていればよく分かる。一般人は自分達を「ニラ」だと言う。「ニラ」という言葉には、自分たちは大企業や中国政府に摘み取られる無名の野菜にすぎず、特に米中貿易戦争が激化し、中国経済が減速する中でいいカモにされている、という自虐的な意味が込められているのだ。良い思いをするのは、汚職に塗れた官僚たちと、死那狂惨党党員だけである。そこでは、錦とはほど遠い塵芥と刈り取られた後のニラの残骸だけである。
日本に生まれて良かったとつくづく思う。
『能因法師集』という家集には、この歌は入っていない。また、専門家の間ではこの歌の評価は低く、定家がなぜこのような歌を選んだのかと疑問を持つ人も多い。
それに比べると次の良暹法師の歌は遁世者の心境を良く表す歌として評価が高い。
第七十番歌 良暹法師
「さびしさに宿を立出でてながむればいづくもおなじ秋の夕暮」
寺院であろうと現代の大企業であろうと、毎日が慌ただしい。やらねばならない仕事が多いのは当たり前のことで、さらにその上思いがけない事故やトラブルが発生し、その解決に東奔西走しなければならないからだ。そういうときには、静かな場所で好きなことだけをして穏やかに暮らしたいと思うのは、古今東西変わらぬことだろう。
良暹法師は、比叡山延暦寺を去った後、大原の里でそのような理想の住まいを現実のものにした。その良暹法師が寂しさに住まいを出てみたら「いずくも同じ」ように寂しいと詠んだ。これはどういうことか。
この歌の前とその前の三つをもう一度見てみよう。第六十八番歌は三条院の「恋しかるべき夜半の月」だった。そこには藤原道長との相克があった。政争である。次の第六十九番歌は、能因法師の「竜田の川のにしきなりけり」だった。政争さえも絢爛豪華な錦の織物のようだと詠んだ。「夕暮れ」とは落日である。平安末期には「シラス国」であるはずの日本が、少しずつ崩れていった。そのことを寂しいと詠んだというのが、小名木さんの解釈だ。私も同感である。
栄枯盛衰は世のならいである。どんなに栄えても、かならず衰退する時が来る。世界史を見ても、オランダ、スペイン、大英帝国、米国と世界に覇を唱えた国はかならず衰退し、新しい勢力が覇を唱えた。現在は米国が覇を唱えているが、その米国も最近は衰退が目立ってきた。だが、次の覇者に死那がなることはない。なぜなら、死那狂惨党はあまりにも異質だから世界の国々は賛同しない。経済力と軍事力だけでは、世界の覇者にはなれないのである。それ以外に、他国が協賛できる価値観だとか、枠組み、道筋を示すことができないと、覇者の資格はないのだ。
自国の国民を「ニラ」として刈り取り、国民の幸せなど一切考えずに、ひたすら膨張しよう、領土拡大を推進し、資源を独り占めしようとする死那狂惨党に同調できる価値観などなにひとつもない。
自身も遁世者の系譜に連なる宗祇は、次のような言葉を書き記した。
「心は明かなり。なを「いづくも同じ」に心あるべし。我が宿のたへがたきまでさびしき時、思ひわびていづくにも行かばやと立出でてうちながむれば、いづくも心のほかの事は侍らじ、われからさびしさにこそと、うちあんじたる心なり。」
良暹法師のこの一首が遁世者の心境を良く表しているからこそ、宗祇も共感を持ったのだ。しかしながら、良暹法師の経歴についてはあまり追跡できないが、能因法師については沢山の逸話があり、生涯の大筋を追うことができる。
『袋草紙』巻三には有名な逸話がある。陸奥へ長い旅をしてきたと見せかけて次の一首を披露した。
「都をば霞とともに立しかど秋風ぞ吹く白河の関」
その『袋草紙』には能因法師の脱俗ぶり・反俗ぶりが書かれているが、その話はここでは省く。
また、西行も能因法師の跡をたどり、陸奥へ旅をした。能因法師の遁世歌人としての地位の高さを知っていたから西行も陸奥へ旅したのだ。
みちのくの国へ修行してまかりけるに、白河の関にとまりて、所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が秋風ぞ吹くと申しけむ折いつなりけむと思ひ出でられて、なごり多くおぼえければ
「白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり」
『山家集』下一一二六
西行は能因法師が歌を詠んだその場所で歌を詠んだのであり、『袋草紙』の話など無視している。つまり、西行は実際に能因法師がここに来たのだと信じていたのだ。話は話であり、実際の事とは違うのである。
能因法師の俗名は橘永愷(たちばな の ながやす)という。父は肥後守橘元愷(もとやす)。大学に学び、文章生となるが、長和二年(1013)頃に出家した。諸国を旅し、奥州・伊予・美作などに足跡を残した。橘氏は古代の名門家系であるが、平安時代には衰退しており、たいして出世も望めなかったのだろう。三十歳にもならないうちに官途を捨てて遁世したことから、そう思える。
賀陽(かや)院の花ざかりに、忍びて東面の山の花見にまかりありければ、宇治前太政大臣聞きつけて、「この程いかなる歌かよみたる」など問はせて侍りければ、「久しく田舎に侍りて、さるべき歌などもよみ侍らず。今日かくなんおぼゆる」とてよみ侍りける
「世の中をむおもひすててし身なれども心よわしと花に見えける」
『後拾遺集』春下 一一七
これを聞きて、太政大臣、「いとあはれなり」と言ひて、被物(かづけもの)などして侍りけりとなん言ひ伝へたる。
能因法師は、関白藤原頼通から様々な恩恵を与えられていたようである。そして、能因法師は大江公資をはじめ大江嘉言・以言・正言兄弟との交流もあった。大江家は文章道の名門であるから、能因は文才に恵まれていたことが分かる。名門橘の一族は当代では力が無く、前途に希望がなかったところから、三十歳にもならないうちに官途を諦めた。そして、半分は僧侶、半分は俗人として生きることになる。
目崎徳衛によれば、能因は馬の飼育や交易で生計を立てていたという。その証拠は確かなようだが、私にはどうでもいいことなので、ここでは省く。
大切なのは、能因は「数寄」を中心に置いて、遁世者として生きていた事だ。そして、そのようなあり方は文化人のひとつの型となった。
「心あらん人に見せばやつの国の難波の裏の春のけしきを」
「山里を貼るの夕暮れ来てみればいりあひの鐘には謎散りける」
「いそのかみ古りにし里を来てみればわれをたれぞ人ぞとひける」
「死出の山このものかのもの近づくは明けぬ暮れぬといふにぞありける」
「いたづらに我が身も過ぎぬ高砂の尾の上に立てる松ひとりかは」
「むかしわが住みし都を来てみればうつつを夢とおもふなりけり」
これらの歌は不安・孤独・寂寥に満ちている。きちんと修行をした身であれば、このような歌が続々とできることは考えにくい。やはり、漂泊をしながら、半分僧侶、半分は俗人として生き、陸奥や出羽などのような都から隔絶した地方に旅する数寄者として「嗚呼(おこ)」の振る舞いを貫いた。
一方の良暹法師だが、この人に関する史料はごくわずかで、家集も残っていない。此の人と交流があったのが、関白藤原頼通の子の橘俊綱とだ。藤原頼通の嫡子は師実であり、母は師実と同母である。しかし、どういういきさつかは分からないが、俊綱を身籠もったままで讃岐守橘俊遠と結ばれたので、その子として育ち、橘を名乗った。後には頼通に認知されたが、権勢からは縁遠い存在になった。それで、もっぱら風流をこととした。
大原に住みはじめけるころ、俊綱の朝臣のもとへいひつかはしける
「大原やまだすみがまも習わねばわが宿のみぞけぶりたえたる」
「すみ」は「住み」と「炭」をかけている。この歌は大評判になったので、後には西行も次の歌を詠んだ。
大原に良暹が住みける所に人々まかりて、述懐歌よみて扉戸に書付けける
「大原やまだすみがまもならはずといひけむ人を今あらせばや」
また、清貧な遁世ぶりを表す次の歌もよく知られる。
荒れたる宿に月のもりて侍りけるをよめる
「板間より月のもるをも見つるかな宿は荒らしてすむべかりけり」
『詞花和歌集』雑上
ここには王朝の美から荒廃に美を見いだす中性のわび・さびへの転換を象徴するものとして、低下はこの人を百人一首に選出したのだろう。
「数寄」について、鴨長明は「発心集」のなかでこう語る。
「数寄というは、人の交はりを好まず、身のしづめるをも愁へず、花の咲き散るをあはれみ、月の出入りを思ふにつけて、常に心を澄まして、世の濁りに染まぬを事とすれば、おのづから生滅のことわりも顕はれ、名利の余執つきぬべし。これ、出離解脱の門出に侍るべし。」
人との交わりを避け、落ちぶれようと愁うことなく、花や月に心を寄せて、常に澄んだ心をもって、世俗にとらわれない生き方を「数寄」という。そうすれば無常を知り、執着もなくなり、煩悩から解放されるだろう。