源実朝『金槐和歌集』から その2
春夏秋冬の思い
二六 咲きしよりかねてぞをしき梅花散りのわかれは我が身と思へば
春部
咲いた時から予め愛惜される、梅の花よ。散って別れるのは、私の命だと思えば。
この歌は次の歌の本歌取りである。
散らねどもかねてぞ惜しき紅葉ばは今はかぎりの色と見つれば
『古今和歌集』 よみ人しらず
梅の花よりも自分の命が先に散るというおののきなのか、それとも過剰なほど神経質な性格が抱かせた思いなのか。
一七五 昨日まで花の散るをぞ惜しこし夢かうつつか夏も暮れけり 夏部
つい昨日まで桜の花が散るのを惜しんできたのに、夢か現実か気づかぬままに もう夏も暮れてしまった。
時の経つのは早い。特に老醜の身になった私には、子供の頃の時間の長さが懐かしく思い出される。しかし、人生は誠に現実なのかそれとも夢か問いたくなったり、夢の様に儚いものだと思ってみたり、人は一生を送る間に何回くらいこのような問いを発するのだろうか。
秋の野におく白露は玉なれやといふことを人々におほせつかうとまつらせし時よめる
二五七 ささがにの玉ぬくいとの緒をよわみ風に乱れて露ぞこぼるゝ
秋部
蜘蛛の巣の糸が弱くて、風に乱れて蜘蛛の巣にかかっている玉のような露がこぼれる。
ささがにとは蜘蛛の別名である。待ち人が訪れ来る前兆を人に示すといわれた。私は蜘蛛が大嫌いである。しかし、別に憎んだりしているわけではない。蜘蛛は私のために生きているわけでもないので、とにかく私の前に姿を表さねばそれでよい。
さて、この歌の蜘蛛の巣の上の露がこぼれるということは「待ち人来たらず」ということなのだろうか。
三一六 春といひ夏とすぐして秋風のふきあげの濱に冬は来にけり 冬部
春だといい、夏だといって過ごしているうちに、秋風が吹く吹き上げの浜に冬が来てしまった。
一首の中に春夏秋冬を全て詠み込んだ。この歌を読めば、道元の次ぎの歌を思い起こす人は多いだろう。
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり
また、良寛さんも次の歌を詠んだ。
形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉
四季の豊かな日本の自然は美しいが、地震、津波、噴火、台風、大水、洪水、土砂災害など自然の猛威に縮こまるしかないことも多い。実朝はその美しい日本の四季をいくつもの歌に託して伝えてくれた人のひとりである事を忘れてはならない。