百人一首に選ばれた人々 その23
第三十番歌 壬生忠岑
「有明の連れなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし」
藤原定家および藤原家隆の二人が、この歌は『古今集』集中の第一の秀歌であると断言した。
有り明けの月が、とても素っ気なく見えた別れがあった。だから、今でも夜明け前の時間が愁いに満ちたものにしか思えない。言葉の意味としてはそんなところだろう。だが、本当にそれだけの意味しかないのだろうかと、小名木さんは考える。
「どれほど辛くて悲しい憂いがあっても、男ならそれを堪えよ。辛くて悲しい憂いを腹に納めて生きろ」というメッセ―ジが読み取れる。
フーテンの寅さんの主題歌「男はつらいよ」の歌詞にある「顔で笑って腹でなく」というところだろうか。もっとも、辛いのは男だけではない。女も辛い。
人間には必ず通らねばならない関門がある。就学、就労、恋愛、結婚、出産、育児、息子の嫁取り、娘を嫁がせること、老年、病、死などである。辛くないことなど何一つない。みんな辛い。
学問が嫌いな人にとっては、学問は苦痛だ。だが、人間として学ぶべきことは学ばねばならない。働くことが嫌いな人には労働は苦痛だ。しかし、労働しないと、ご飯を食べていけない。まあ、そのほかのこともみな同様である。辛いからと言って、避けて通るわけにはいかない。つまり、人生は修行である。
さて、言葉の表面上の意味ばかり追い続けても、その深い意味が理解できなければ、和歌の道など手放すほうがいい。作者が本当に言いたかったことを読み込んでこそ、詠み手と読み手の真の交流が生まれるのである。藤原定家は本当 に大天才で、最も優秀な読み手であった。
第四十一番歌 壬生忠見
「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」
この時代、内裏の警備体制は三重になっていた。天皇の御座所近くを近衛府、中程を兵衛府、外回りを衛門府が担っていた。壬生忠岑は、近衛の番長を務めていたことがあり、主上身辺を御守りすることに誇りを持っていた。
しかし、老境に入ったころ、右衛門府生(うえもんふしょう)に転任させられた。そのため、忠岑は、衛門府への転任を左遷と感じて、打撃を受けた。そして、影の薄い存在になってしまった。忠岑の才能と不遇は、その子忠見に受け継がれた。忠見は、角国にわび住まいしたらしいが、それも相当長い期間だったようだ。
「桜花高き梢の靡かずば返りやしなむ折りわびぬとて」
御返し
「折わびて返らむものをきしかげの山の桜は雲居なりとも」
さて宣旨給わりて御厨子所に候ひて参らす
「年を経て響きの灘に沈む舟波のよするを待つにぞありける」
延喜の時代に凡河内躬恒が不遇を嘆じた御厨子所でさえ忠見には、宣旨を待ち焦がれる高嶺の花になっていた。御厨子所の膳部に選ばれたのは天歴八年村上天皇の御代であった。そして、村上天皇が主催された天徳内裏歌合に登場するのが、歌合の二十番左歌としての「恋すてふ」の歌である。
この歌は、平兼盛の「忍ぶれど色に出りけり我が恋はものや思ふと人の問ふまで」と合わされた。判者の左大臣藤原実頼は、勝敗を決めかねた。そして、大納言源高明に譲るも、高明も判定できない。そのとき、御簾の中で天皇が右方の歌を口ずさまれた。そこで、実頼と高明は、主上の思し召しは右のようだとささやき合って、右の勝ちと定めた。この後、忠見は胸ふさがって、ついには病を得て身罷ったという話がある。
さて、「まだき」は「早くも」という意味だ。第四十番歌の平兼盛と第四十一番歌の壬生忠見の二人が歌を詠んだときに年齢がいくつだったのかは私には分からない。だが、私の勝手な想像ではもうすでに若くない男だったのではないかと思う。しかし、平兼盛の歌には純朴さや純粋さがあったのに対して、壬生忠見のほうはいささか技巧に走りすぎてしまった。だからこそ、平兼盛に軍配が上がった。少なくとも小名木さんはそのように解釈している。私には、和歌の技巧については素人であり、そこまでは分からない。
だが、現実は残酷である。勝つか負けるかは判者がどのように優劣を付けるのかにかかっている。壬生忠見は身分が低かったので、この歌合で勝てば立身出世も可能だったが、惜しくも敗れてしまった。それにしても、和歌の才能一つで立身出世も叶うとは、なんとも凄い仕組みがあるものだ。まあ、支那にも詩歌の才で出世したり、公邸の近くに仕えたりした人は多いことも事実だ。
話はがらりと変わるが、当時の絵画を見ると女性は腰よりも長い髪を後ろで縛った形をしているらしい。髪が長ければ手入れも大変であろう。つまり、長い時間を掛けて髪の手入れができるほどに豊かで平和な時代だっのだろう。男性は女性に対して純情であり、女性は大切にされていたという。
一説によれば、どちらも名歌なので判者が困っていたところ、帝が「しのぶれど」の歌を口ずさんだことから、平兼盛の勝ちとなったというエピソ―ドがある。負けた忠見は落胆のあまり食欲がなくなり、ついには病で亡くなってしまったという話もあるが、真偽のほどは分からない。
ところで、話は変わるが、私がとても好きな女流歌人に宮内卿という人がいる。後鳥羽院の元で活躍した人だ。
『薄く濃き野辺の緑の若草にあとまで見ゆる雪のむら消え』という非常に優れた歌を詠んだので、「若草の宮内卿」とよばれた。だが、和歌にのめり込んでしまい、20歳くらいで亡くなってしまう。だから、壬生忠見が歌合に負けたことで、食欲がなくなりついには死にに至ったというのも分からないわけではない。
なお、私は宮内卿の歌を元歌にして、次のような狂歌を詠んだ。
「薄く濃き鏡の己が髪見れば後頭(あと)まで見ゆる髪のむら消え」