西行の足跡 その49

47「白河の関屋を月の漏る影は人の心をとむるなりけり」 
 山家集下・雑・1126
 秋風が吹くころにここ白河に来たという能因は、関屋に漏れ射る美しい月光に迎えられて、すっかり心惹かれただろう。
 
 上の歌は、『後葉和歌集』にも入集した。この歌は、能因の有名な次の歌を踏まえている。
「都をば霞とともに立しかど秋風ぞ吹く白河の関」 後拾遺集・羈旅
 都を出発したのはちょうど春霞が立始めた立春の頃だったが、陸奥の玄関口白河関に付いてみると、白秋の立ったことを感じさせる秋風が吹いていた。
 
 西澤教授によれば、『延喜式』などの資料によると、京都から白河の関まで一月半ほどの旅程だそうだ。それを半年もかかったと、大袈裟に表現している。「霞」は立春の象徴であり、「風」は立秋の象徴である。陰陽五行説によると、春は青(青春)、秋は白(白秋)である。そのような対比を重ねた。さらに、「都を立つ」(旅立ち)と「霞立つ」を掛けて、春の旅立ちの必然性を見いだす。
 
「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散り敷く白河の関」 
 千載集・秋下・頼政
 都で見たときはまだ青葉だったが、白河の関に着いてみると、すでに紅葉は散り敷くまでになっていた。
 
 この歌は色彩感覚を展開したものである。だが、西行はそのようには展開しない。
「枯れにける松なき宿の武隈は見きといひても効(かひ)なからまし」 
 山家集下 雑・1128
 武隈の館に来ても、名物の松が枯れてしまっているのでは、二木(ふたき)を見た、三木(みき)を見た、などと詠じた名歌を思い出してもむなしいばかりだ。この西行の歌は、下の歌を先蹤としている。
 
「武隈の松は二木を都人いかがと問へば見きと答へむ」 
 後拾遺集・雑4・橘季通(すえみち)
 武隈の松は根元から二本に分かれた「二木」であるが、都の人に感想を聞かれたら、確かに見てきたという証拠に、二木ではなく「三木」(見き)だった、とでも答えておこうか。
 
 しかし、能因が詠んだ下の歌のほうに心が惹かれているようだ。
「武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てや我は来つらん」
 後拾遺集・雑4・能因
 最初の旅の折には枯れながらも跡はあったが、今回の旅ではそれもない。松は千年の長寿を誇ると言うが、あれから千年も経ってしまったのか。
 
 そして、初度(しょど)の陸奥の旅で辿り着いた先は平泉であった。
「取り分きて心も凍みて冴えぞわたる衣川見に来た今日しも」 
 山家集下・雑・1131
 心の底まで凍り付くような凄絶な風景だ。本当の衣川を是非ともみたいという願いは叶ったが、それにしても今日は格別に寒い一日だ。
 
 この歌には「衣川」の縁語が鏤めてある。「凍みる」は「染みる」と掛かり、「見に来たる」は「身に着たる」と掛かる。つまり、「衣」に掛かる。
しかし、西行は歌枕ばかりを訪れていたわけではない。
 
「朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて枯野の薄形見にぞ見る」 
 山家集中・雑・800
 不朽の名声だけをこの世に残して、実方中将はこの枯野に骨を埋めたというが、その形見は霜枯れの薄があるばかりだ。
 
 ちなみに、この歌は『新古今集』にも入集している。そして、山家集の詞書きにはこうある。
「みちの國にまかりたりけるに野中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを人にとひければ中將の御墓と申すはこれがことなりと申しければ中將とは誰が事ぞと又問ひければ實方の御事なりと申しけるいと悲しかりけるさらぬだに物哀におぼえけるに霜枯の薄ほのぼの見え渡りて後にかたらむ詞なきやうにおぼえて」
 
 なお、実方の最期はどうだったのか。『源平盛衰記』にはこうある。長徳4年12月(999年)、実方は名取郡にある笠島の道祖神の前を、馬に乗ったまま通り過ぎようとした。土地の者が馬から下りて再拝して通られるよう諫めたところ、実方はその理由を尋ねた。土地の者によると、この笠島の道祖神は、都にある出雲路道祖神の娘であり、良いところへ嫁そうとしたが商人に嫁したために親神が勘当、この地に追われやって来た。そこで土地の者は篤く崇敬している。男女貴賤の差にかかわらず、祈願する者は“隠相=男根”を造って神前に捧げれば叶わないものはない、と。
 
 この返答に対して実方は「さては此の神下品の女神にや、我下馬に及ばず」と言い放って、馬に乗ったまま通り過ぎてしまった。そこで神は怒り、馬もろとも蹴りつけたために、実方は落馬して打ち所が悪く死んでしまったのだという。土地の人の忠告を無視して命を落とした実方の哀れな最期に同情したのだろうか。
 

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