『和歌史』なぜ千年を越えて続いたか 渡部泰明 角川選書出版 その6

 六歌仙の時代から『古今集和歌集』の時代への変遷
 
 醍醐天皇が四人の歌人に命じて勅撰和歌集『古今集』の撰進を命じられた。その四人とは紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑である。業平の後に登場するのが、紀貫之である。
 和歌の世界では「見立て」という手法が使われるという。ある物や自然現象がその場には存在しない別の物に見えるように表現する詠み方だそうだ。視覚的手法のみならず、聴覚的高価にも使われるらしい。平たく言うと、一種の比喩と言ってもいいだろう。
 
 雪の降りけるをよめる
 霞立ち木の芽もはるの雪ふれば花なき里も花ぞ散りける 
 古今集・春上・九
 霞がたち、木々の芽もふくらむ春になって雪がふるので、まだ花の咲かないこの里にも、春の淡雪が花と散っていることよ。
 
「ぞ〜ける」は「係り結び」であるから、「けり」が「連体形」の「ける」になり、強調表現を表す。「けり」の意味は「過去」ではなく、「〜だなあ」という「詠嘆」である。
 
 この歌では春の雪を花に見立てている。「花なき里にも花ぞ散りける」というのは、起こりえないことが起きたという印象を与える。つまり、花のように春の雪が降るという意味だ。
 
 春になってさくらの花が咲くのが待たれる。その期待感が雪を花と見誤らせる。そのような歌は次の二つの歌でも同じようなむ「見立て」が使われている。
 
 雪の木に降りかかれるをよめる
 春立てば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯の鳴く 
 古今集・春上・六 素性法師
 
 題知らず
 心ざし深く染めてしをりければ消えあへぬ雪の華と見ゆらむ 
 古今集・春上・七
 ある人のいはく、前太政大臣(藤原良房)の歌なり
 
 歌奉れと仰せられし時に詠み奉れる
 桜花咲きにけらしもあしひきの山の峡(かひ)よりみゆる白雲 
 古今集・春上・五九
 桜の花が咲いたらしい。山の谷間から白雲が見える。
 
 今度は花を白雲に見立てた。「霞か雲か」という唱歌があるように、私たちにはなじみが深いが、渡部教授によれば、『古今集』の段階では花を雲に見立てるのは常套手段にはなっていなかったらしい。
 
 山ざくらを見て
 白雲と見えつるものをさくら花けふは散るとや色ことになる 
 後撰集・春下・一一九 貫之
 
 山の甲斐(かひ)たなびきわたる白雲は遠き桜の見ゆるなりけり 
 貫之集・三二
 
 亭子院歌合歌
 さくら花ちりぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける 
 古今集・春下八九 貫之
 桜の花を風が散らしてしまった。その風の名残として、水のない空に波が立ったよ。
 
 今度は花を波に見立てた。古今集にはこの歌のほかに波を花に見立てる歌があるが、花を波に見立てる歌は珍しいそうだ。しかし、波を花に見立てる歌は『古今集』にはいくつか見られる。そのひとつが次の歌だ。
 
 谷風にとくる氷のひまごとにうちいづる波や春の初風 
 古今集・春下・一二 源当純(まさずみ)
 
 そして、雪を花に見立てる例を『古今集』から見てみよう。
 
 白雪の降り敷く時はみ吉野の山下風に花ぞ散りける 古今集・賀・三六三
 白雪がしきりと降るときは、吉野山を吹き下ろす風に花が散るのだ。
 
 降る雪を花にたとえる例はあっても、吉野山に降る雪を花に見立てるのは新しい試みであった。さらに、「山下風」は山から吹き下ろす風のことだが、実際に風が吹いているのかどうなのかということは分からない。
 
 なお、渡辺教授によれば、縁語を駆使して貫之は言葉を展開していくと考えている。次の歌を見てみよう。
 青柳の糸よりかくる春しもぞ乱れて花のほころびにける 
 古今集・春上・二六
 青柳が糸の様な枝を縒って掛ける春という折も折、花が乱れ咲くのだ。
 
「糸」「より」「乱れ」「ほころび」が縁語である。
 
  さて、「風のなごり」と言う言葉に注目しよう。「なごり」は「余波」である。花を散らした風は止んだ。しかし、散らされた花はまだ空を舞っている。それを「なごり」の波に見立てたのである。そして、「水なき空に波」が立つのだ。それは、実際にはあり得ないことだが、自然の原理を無視して浮遊する花の姿がある。
 
 今度は雪を花に見立てた歌を取り上げる。
 白雪の降りしく時はみ吉野の山下風に花ぞ散りける 古今集・賀・三六三
 白雪がしきりさ降るときは、吉野山を吹き下ろす風に花が散るのだ。
 
 吉野に降りしきる雪をそそそのままそっくり花に転じる。まさしく言葉による力業である。そして、想像力が縁語によってさらに強化された表現が見られる。
 
 青柳の糸よりかくる春しもぞ乱れて花のほころびにける 
 古今集・春上・二六
 青柳が糸の様な枝を縒って掛ける春という折も折、花が乱れ咲くのだ。
 
「糸」、「より」、「乱れ」、「ほころび」が縁語になる。それでは、「縁語」を追っていこう。次の二つの歌をみてみよう。
 
 人を別れける時に、よみける 
 わかれてふ事は色にもあらなくに心に染みてわびしかるらむ 
 古今集・離別・三八一
 別れということは、色でもないのに、どうしてこれほど心に染みて寂しいのだろうか。
 
 糸による物ならなくに別れ路の心ぼそくも思ほゆるかな 
 古今集・羈旅・四一五
 糸に縒るものでもないのに、どうして別れていく道はこれほど心細いのだろうか。
 
 前の歌では、「糸」と「染む」が、後の歌では、「糸」と「細く」が縁語になっている。そして、「あらなくに」と「ならなくに」という否定表現がポイントである。「別れは色ではないのになあ」、「別れ路は糸ではないのになあ」という、人生の不条理を感じさせる。
 
 もう一つの例を見てみよう。
  世とともに流れてぞ行く涙河冬も氷らぬ水泡(みなわ)なりけり 
 古今集・恋・五七三
 いつまでも流れる涙川、人生泣いてばかりの涙の川。私は冬でも凍らないその川の泡の様な存在だ。
 
「流れ・泣かれ」、「水泡・身」が掛詞になっていて、「涙河」の縁語である。儚く消えては浮か水の泡だから、凍り付くこともないのだ。消えてしまいそうなのに生き長らえてしまうという皮肉に満ちた人生の象徴にもなる。
 
 渡部教授はそれから、紀貫之の「仮名序」について長い文を展開しているが、専門家ではない私には不要なので割愛する。ただ、『古今集』については、見立ての技法や掛詞や縁語の多用により、理知的だとか、技巧に富んでいる、理屈っぽいと批判的な言われ方をする。だが、天然自然の力を感受し、感応する、繊細な感覚の裏打ちを忘れてはなるまい。
 
 そして、渡辺教授は紀貫之が書いた『古今集』の「仮名序」を様々な角度から分析するのだが、それは私のような素人には不要な者なので、ここでは割愛する。
 
 村上天皇が選ばせた『後撰集』ならびに三番目の勅撰集である『拾遺和歌集』と『古今集』を併せて、三代集と呼び『古今集』は和歌のバイブルになった。
 宮廷は人間の集まる場所であるから、光を浴びるように出世を重ねる人物も居れば、日陰にひっそりと生きるようにしか生きられない、いわば出世できなかった人物もまた数多いるのだ。自己実現を果たせなかった人々をすくったものもまた和歌だった。そんな歌人の中から渡辺教授が選んだのは、曾禰好忠である。
 彼は下級貴族の出身だったが、円融院が催した子の日の御游に呼ばれもしないのに参加して追い払われたという有名な話がある。つまり、常識や制約に囚われず、自由で奔放な人だったのだろう。
 
 荒小田(あらおだ)の去年(こぞ)の古あとの古蓬いまは春べとひこばえにけり
 曾禰好忠集・二月中・五一
 荒れた田の去年の跡の古蓬からは、今はもう春だと古株から芽をだしたよ。
 
 このような視点は貴族のものではなく、農民や一般庶民の視点に近い。
 
 野洲川の早瀬にさせるのぼり梁今日の日よりにいくらつもれり 
 三月終り・八八
 野洲川の早瀬にのぼり梁(川を遡上する魚を捕る仕掛け)を設けた、今日の良い日にどれほど魚が捕れただろう。
 
 杣川の筏の床の浮き枕夏は涼しき臥所なりけり 五月・初め・一三二
 杣を流す川を行く筏を寝床として波を枕にする。夏でもなんて涼しい寝場所なのだ。
 
 深山木を朝な夕なにこりつめて寒さを願ふ小野の炭焼き 
 十二月終り・三六四
 山奥の木を朝晩伐りだして集めては、寒くなることを願うのだよ。
 
 川で魚を捕る漁夫、川を行き来する筏師、山奥で炭を焼く炭焼き、それぞれの立場に立って、歌を詠んでいる。臨場感を伴って詠まれる歌の数々は、従来の宮中で活躍する歌人群とは際だった違いを見せる。
 
 上(うへ)そよぐ竹の葉波の片寄るを見るに付けてぞ夏は涼しき 
 五月果て・一五三
 上の方がそよいでいる竹の葉の波が片寄るのを見るにつけ、夏も涼しくなる。
 
 手もたゆく扇(あふぎ)の風もぬるければ関の清水にみなれてぞいく 
 五月果て・一五四
 扇で仰いでも手もだるくなり風もぬるいので、逢坂の関の清水に馴れ親しむのだ。
 
「みなれ」は「身馴れ・水馴れ」の掛詞である。扇で煽いでも手が疲れる。風とは言っても、生暖かい。それならいっそのことと思い立って、逢坂の関の清水まで出かけていって水際で涼むようにした。
 
 入り日さしひぐらしの音を聞くからにまだきねぶたき夏の夕暮れ 
 六月終り・一八一
 カナカナという蜩の声を聞くと、夕方なのにもう眠くなる。
 
 このような経験はだれにしも覚えがあるだろう。平安時代の昔にも、まるで現代短歌が詠まれたようなかんじがして面白い。
 
 朝ぼらけ萩の上葉(うはば)の露見ればやや肌寒し秋の初風 
 七月初め・一九ニ
 明け方にはぎの上葉の露を見ると、少し肌寒さを感じる、秋風の中。
 
 涼しい、ぬるい、ねむたい、肌寒いと皮膚感覚、身体感覚が頻繁にでて来るのが曾禰好忠の歌の特徴なのだろうか。古典の専門家ではない私にはよく分からないが。
 そして、萩の葉音こそが秋を報せるものだが、露という視覚に訴えるもの、肌寒さという身体感覚に訴えるもの、葉音という聴覚に訴えるものがひとつになって迫ってくる。
 
 藤生野(ふぢふの)に柴刈る民の手もたゆくつかねもあへず風の寒きに   
 十月果て・三○四
 藤生野で柴を刈る民の手もだるくなり、束ねることもできないよ、風が寒いので
 
「藤生野」というのは『催馬楽』で唱われた地名であり、山城国相良郡にあったという。寒い冬の風に吹かれて柴を刈る民のでかじかみ、作業がはかどらない様がよく描き出されている。
 
 夜は寒し寝床は薄し故郷の妹がはだへは今ぞ恋しき 十一月中・三二一
 夜は寒い。寝床は薄い。故郷にいる彼女の肌が今こそ恋しい。
 
 蝉の羽の薄ら衣になりしより妹と寝る間の間遠(まどほ)なるかな 
 五月中・一四一
 蝉の羽根のような薄い衣の時期に成ったのに、彼女と寝る夜は逆に間遠になった。
 
 暑い京都では、恋人といえども側にいられると暑い。夏なので衣は薄くなったが、暑さを厭うので、共寝を避けるのだ。
 
 我が背子が夏の夕暮れ見えたらば涼しきほどにひと寝寝(いね)なまし  
 六月中・一六五
 彼氏が夏の夕暮れにやってきたら、涼しい内にひと眠りしよう。
 
 うとまねど誰も汗こき夏なれば間遠に寝とや心へだてん 六月中・一六六
 嫌いになったわけではないが、誰でも汗だくになる夏なので、共寝も間遠に、と距離を置くのか。
 
 我妹子が汗にそほつる寝より髪夏の昼間はうとしとや思ふ 
 六月終り・一七五
 自分の彼女の汗に濡れそぼった寝乱れ髪を、夏の昼間はうとましく思っているのか。
 
 妹と我寝屋の風戸に昼寝して日高き夏の蔭を過ぐさむ 六月終り・一七八
 彼女と私は寝室の風の入る戸口で昼寝をして、日盛りの夏の日差しをやり過ごそう
 
 我が背子が我にかれににし夕べより夜寒なる身のあきぞ悲しき 
 八月上・二二一
 彼氏が自分から遠のいてしまった夕方から、捨てられた身には夜寒の秋が悲しい。
 
「かれ」は「離れる」の意味である。「あき」は「秋」と「飽き」の掛詞である。
 
 我が背子とさ夜の寝ごろも重ね着て肌へを近みむれつてぞ寝る 
 九月終り・二七二
 彼氏と寝間着を重ね着て、肌を寄せ合いいちゃつき寝ているのだ。
 
 平安時代には布団などというものはなかったので、互いの衣を重ねて掛けて寝るのだ。さらにもう一首。
 
 さ夜中に背子が来たらば寒くとも肌へを近み袖もへだてじ 
 十一月終り・三二九
 夜中に彼氏が来たら、どんなに寒くたって肌を触れあい袖だってへだてない。
 
 浅緑(あさみどり)山は霞にうづもれてあるかなきかの身をいかにせん 
 正月終り・二十五
 浅緑色に山は霞に埋もれて、在るのか無いのかわからない、まるで生きているのかいないのか分からぬ私のように。
 
 我が身こそいつとも知らねなかなかに虫は秋をぞ限るべらなる 
 八月終り・二四四
 私はいつ死ぬのかも分からずに生きているが、かえって虫はこの秋が最後だとかくごして鳴いているようだ。
 
 私は、死期を覚悟せずに、のんべんだらりと生きている。それに比べて、短い命を覚悟して精一杯に鳴いている虫たちがいる。私は虫よりも儚いというのに。そんな自省も人なればこそ。
 
 柴木焚く庵に煙りたち満ちて絶えず物思う冬の山里 十月果て・三○○
 柴木を焚いて草庵に煙が充満するように、悩みは尽きないよ、冬の山里では。
 
 この世に生を受けて生きていかねばならない私たちには、我が身に降りかかる悲しみや苦しみ、憂いを詠んでいるのだ。
 こうして見ていくと、身体感覚あるいは皮膚感覚または「身」の感覚とでもいうものが働いていることが分かる。民の身、恋人の身になって思いを表現できる能力こそが、曾禰好忠の特徴ではないのだろうか。
 
 さらに、以下の和歌の数々を眺め渡すと、現象を細やか見つめている眼がある。そして、現象はみんな動きとして捉えられている。
 
 三島江に角ぐみわたる葦のねのひと夜ばかりに春めきにけり 
 正月初め・三
 三島江では一面に角を出すように葦が芽ぐんで、一夜のうちに春らしくなった。 
 
 この歌では、葦芽(あしかび)を彷彿とさせる、植物の生成する力を詠んだ。
 
 寝屋の上に雀の子ぞすだくなる出で立ちがたに子やなりぬらん 
 三月中・七三
 寝屋の上に雀の声が群がっている。子の巣立ちが近くなったのだろう。
 
 この歌では、屋根の上で遊ぶ雀の子らを浮き彫りにした。
 
 榊とる卯月になりぬ神山の楢の葉がしはもとつ葉もなし四月初め・九五
 夏祭りの榊をとる四月になった。賀茂の神山では神事に用いるの楢の古葉は少しも残っていない。
 
 この歌では、神事を待ち迎えるように新しく葉を入れ替える山の木々を引き寄せて詠んだ。
 
 河上に夕立すらし水屑せく簗瀬のさ波立ち騒ぐなり 六月初め・一五七
 河上では夕立があったらしい。塵芥を堰き止める簗を懸けた川瀬の波が騒いでいる。
 
 この歌では、増水した簗の小波から源流で発生したであろう夕立に思い起こした。
 
 山城の鳥羽田の面を見渡せばほのかに今朝は秋風ぞ吹く 
 七月初め・一八七
 山城の鳥羽田の面を見渡すと、ほのかに今朝秋風が吹き始めた。
 
 この歌では、稲穂を揺らす風を視覚と聴覚と全身の全身の感覚で受け止めて、秋の到来を感じている。
 
 微細な観察力によって、植物の生成力、季節感、など自然の持つ不可思議な働きやその源泉に思いを馳せて和歌が展開されていく。ただ、曾禰好忠一人のみがその役割を果たしたのではなく、彼の仲間がいたということに行き着く。彼には仲間がいた。彼の仲間は彼の企画を導き促す役割を果たした。その仲間達を、「河原院文化圏」と渡辺教授は呼ぶ。河原院とは源融の大邸宅である。
『後撰集』に関連する梨壺の五人もいた。大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、清原元輔(きよはらのもとすけ)、源順(みなもとのしたごう)、紀時文(きのときぶみ)、坂上望城(さかのうえのもちき)である。
さらに、平兼盛、源重之、源兼澄などの天皇家の血につながりながらも、摂関政治では浮かばれなかった人々がいた。現実世界では立身出世する方策がない彼らには、和歌や漢詩こそが己を表現する手段だったのだ。
 

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