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杉田久女

 蝶追うて春山深く迷ひけり 

 俳誌「ホトトギス」は高浜虚子が主催した。私は俳壇の事情など全く知らないのだが、主催者に疎まれると、もうそこの俳誌には投稿できないらしい。
 1936(昭和11)年10月、ホトトギスに「同人のうち日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女三君を削除」するとの同人変更の社告が掲載された。日野、吉岡は当時盛んだった新興俳句運動の中で、虚子との対立が鮮明だったが、久女の除名ははっきりとした理由がわからなかったらしい。しかし、除名処分されても「ホトトギス」には投稿し続けたという。掲題句は、同人除名後の1937(昭和12)年の作品である。

 さて、この「蝶」とは「ホトトギス」のことなのか、あるいは主催者の高浜虚子なのか。高浜虚子は女にだらしなかったということはないようだ。だとすれば、久女の一方的思い込みだったのか。男女間の感情は必ずしも恋愛には限定されない。芸術や武術など師弟関係では、異性の師の才能に狂い死にせんばかりに憧れたということならあり得るだろう。多くの女弟子もいる中で、余りにも密着してくる女がいれば師である男性としては鬱陶しいことだろう。恋愛感情抜きで多数の女弟子を扱わねばならない立場だとしたら、なおさらのことだ。つまり、虚子にとっては久女の存在というのは、今風に言えば「重かった」のではなかろうか。

 久女はそんな師の思惑には関係なく、ひたすら追いかけた。そして、とうとう春山の奥深くに迷い込んだのである。そこに久女が見いだしたのは深い孤独だったのか。それとも、自分の感情を全開したままで追いかけたことに対する満足感だったのだろうか。

 花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

 花衣とは、花見のときに着用する衣装のことを指すらしい。
 つまり、この句の意味は、「花見から帰ってきた女性が着物を脱ぐために一本一本紐をほどき捨てていきます。こうあらためて見てみると、なんと紐の多いことか」という女性ならではの句である。
 男の私にはさっぱり分からないが、確かに着物の紐は多いだろうくらいのことは想像が付く。
 この句は1919年(大正8年)に詠まれたという。その当時は、女性が社会で活躍するというのは相当難しい時代だっただろうと思われる。
 着物を脱いで紐を外す時の開放感に溢れているとも取れるし、長時間着物を着ていて体を締め付けられていた疲労感を表しているとも取れる。
 だが、花衣も紐も比喩であり、それは当時の男性社会に反発して、そのような世間の柵から自由になって、解き放されるのだ、という久女の決意なのだとも取れる。そのことは次の句でも感じ取られる。

 足袋つぐやノラともならず教師妻

 ノラは、イプセンの戯曲『人形の家』の主人公で、妻を人形のように扱う夫から自立しようと家を出たことから近代女性の象徴だと言われる。興味がないのでその本を読んだことはない。
 久女の夫は東京芸大出身の画家だった。田舎の中学校の図画教師だったという。「ノラともならず」とは、自分はノラのような自律した女になりたいという気持ちが心の底にあったからだろう。
 この句の意味は、「私は、時代の新しい女性・ノラのようにはならずに一教師の妻として、家庭を守り、こうして足袋を繕っているのです。」となるだろう。
「足袋つぐや」とは、足袋を繕うことである。現在の日本では破れた靴下を繕うことなどしないが、私が子どもの頃には、継ぎ接ぎだらけの着物を着たり、靴下を穿いたりしていた。当時の女性の労働は大変なものだった。今のように、自動炊飯器などなかったので、女は竈の前に蹲り火を焚いていたし、大きな洗濯盥で洗濯をしていた。掃除機などもなく、掃く拭く掃くの繰り返しだった。
 そんな時代にノラになろうとしていた久女は、まさしく精神的には進歩的な女でありながら、忍耐強く当時の女に求められていたことをきちんとこなした。

 ユダともならず
 春やむかしからむらさきあせぬ袷見よ

 昭和11(1936)年『ホトトギス』10月号に自分の除名社告を見た久女は、おそらく我が目を疑い言葉を失ったことだろうと想像できる。除名から少し経ち落ち着きを取り戻した頃、久女は、除名は自分の去就について、虚子に試されているのだと考えた。だから、いつの日か虚子の勘気が解けて、再び同人に返り咲く日が来ることを信じていたようで、最後まで他の結社に移ることはしなかった。
「ユダともならず」という前書きは、除名されても『ホトトギス』を裏切る者ではないとの思いがあったに違いない。
 私は、俳句についてはさほどよく分からないので、なぜ高浜虚子が杉田久女を「ホトドキス」から除名したのかは分からない。しかし、久女の才能のすごさを考えると、何か大きな問題がない限り、師が弟子を見限ることはないだろうから、虚子だけがその理由を知っていたとしか思えない。


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