ヌーソロジーとスマルの膜
概念化してしまった物を、時空を、自我を、手放そう――。
時空
ヤマタノオロチ
時空とは本来、全体として調和した一つの存在なのだと言われています。
似たような考え方に、「ガイア理論」というのがありますね。ただし、ヌーソロジーの場合は単に物質的な価値観ということでなく、精神的な価値観を統合しているというところが違っているように思います。
しかしながら、半田さんは時空については「ヤマタノオロチ」であるということも言われています。
4次元時空と複素二次元(4次元空間)。エルミート性。
九十(コト)というのはψ9思形、ψ10感性というようなことだと思います。大蛇としての時間というのは、ψ8~ψ7(偶数先手)という潜在化の次元。
冒頭で「時空とは本来、全体として調和した一つの存在」と言われていたのは、ψ7~ψ8(奇数先手)の顕在化の次元ということかもしれません。
日本神話とはヌーソロジーのことだった!
実際には世界各地の神話もそうだったりします。
自我
時空、想像的自我、表象知。ψ8、ψ6、ψ4、ψ2みたいな対応でしょうか。
Sというのは構造としての他者、ということだと思います。自分の顔は自分では見えません。英語で主語を「subject」というので、その頭文字を取っているのかもしれません。
西田幾多郎は主語論理や述語論理ということを言っているようです。
スピ系で言われるパラレルワールドに対する批判。
何が自我中心すぎるというのでしょうか。
おそらく、「私は前世で偉い人だったの」とか、「私は来世で銀河のマスターに仕える役割をもっているの」とか、そういうアレなのではないかと思います。
そういうのはヌーソロジーで「(現代科学で考えられているような)ビッグバンなんて無かった」「恐竜なんていなかった」というような意味で批判されるのではないかと思います。
なので、人間の内面的な妄想的認識においては、パラレルワールドというものもあるのかもしれません。今日(2024/09/28)のオンラインサロンでも、そういったことを言われていました。
個人的には無数のパラレルワールドというのは、コンピュータの処理能力や負荷というような観点で、現実的ではないように思います。ヌーソロジーでいうところの「融解作用」(偶数先手に偏る)という感じです。ちょうど「融解」と「幽界」という言葉が同じ発音なのも、偶然ではないでしょう。
ウシ。そういえばシュタイナーは、牛と地球の霊的な意味について述べていましたね。「牛 site:https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/」というようにググると、以下のサイトがヒットします。
牛はアストラルな役割があるのです。
ちょうど最近の半田さんのブログでも取り上げられています。そういえば最近のアニメではミノタウロスの登場率が多いことが一部で話題ですね。
物質と自我、時空と重力。
時空を解体していくこと。自我を超克していくこと。
直線的時間と円環的時間
うーむ、「永遠」というのが、現代的な時間概念で捉えられてしまって「ビッグバン」とか「パラレルワールド」の妄想になったりするのかもしれません。
ヌーソロジーでいう「永遠」というのは、直線的な時間のことではなく、「円環的な時間」という意味なのです。6500年×4のサイクルでの交替化とか、そういう感じの図で言われるやつですね。
「いや、6500年の倍数だからといって、別に宇宙人とか過去の文明とか、ビッグバンとか、そういうのは直線的時間と変わらないのでは?」
というような疑問も浮かんできます。
確かに、物質概念、幅認識という意味では、そういった描像やイマジネーションというものはあるかもしれません。
しかしながら、ヌーソロジーで言われている円環的な時間というのは、そういった「ネイチャー」としての自然でなく、「フィシス」としての自然なのです。つまり、「それそのもの」として生成している存在、精神というところの意味なのです。したがって、物質的に描像されているような認識は影であって、本質ではないということに留意せねばなりません。
進化するのは人間ではなく、人間の意識です。
スマルの膜
スマル
個人的には英語の「small」や「smart」ということにもつながっている気がしています。スピリチュアルでいう「小我」とか、「スマートフォン」とか、スマルということに関係しているでしょう。
進化のための変化を送れなくなる、ということが言われています。
『シリウス革命』の本によれば、スマルとはコンピュータ世界とか、バーチャル空間とか、そういう感じの説明もされていたと思います。
わかりやすく言うと、ゲームのキャラクターがゲームの世界の中でゲームを始めたら、コントローラで動かせなくなる、みたいなものかもしれません。
ベッドで横になってスマホばかり触っているというのも、そういう感じだったりしそうですね。
だから自然に回帰しようとか、縄文の生活だとか、そういうのもまた違うのではないかと思います。いや、仮にそうだったとしても、ヌーソロジー的なゲシュタルト、思考様式というものが必要になるのだと思います。
でないと、ハイデガーのように、ナチスなどの全体主義に流れてしまうとか、そういうことなんだと思います。最近のスピリチュアルだの都市伝説だの陰謀論だのというのは、どこかそういう節がありますよね。
存在世界を物質だけで見てしまったり、自我が他我化してしまったりするのは「定形化した次元における不連続質」、すなわちスマル。
自我の他我化っていうのはあれですね。他者視線で見られる自分という認識。
連続性というのは存在の一義性という意味において連続的であると言われています。わかりやすく言えば、存在というのは自己と他者の眼差しの振動のようなところに、マカバのようにあるものだということです。たぶん。
そして、スマルというのはその連続性を絶つ。引き籠ってゲームばかりして、自分以外の人間との関わりを絶ってしまうようなことに例えられるでしょう。そこにおいては自己と他者との心のやりとりが失われるか、あるいは歪んだり希薄になったりするものです。何を隠そう、私自身そういうところがあるのでよくわかるのです。
ミスマル
ミスマルとスマルの対比。
ミスマルとは数珠のようなものらしいです。
個人的には「ミ」というのは数字の「三」ということのように思います。
ちょうどヌースコンストラクションが三つの垂質次元の球であるという感じ。スマルとはそういった自己、他者、モノという空間の区別がつかず、ひとつの物質世界の空間に見えてしまっているような感じなので、「スマル」ですね。「御」の字が無いわけです。数珠をつけて手を合わせたりしなさそう。手を合わせるというのはある意味で自己と他者の対化の表現ですし、数珠というのは持続空間とか、そういうものの表現のように感じます。
ほら、なんとなく球体の図とか、数珠のような感じに見えてきませんか?
これなんか、まさに数珠のようですね。
核質膜
スマルの膜は核質膜とも呼ばれます。
核質膜とは3次元空間であり、まさに人間の外面と人間の内面を隔てる膜のようなものだと言われています。
3次元空間は時間を足すと4次元時空ということになりますね。
物というのは、自己と他者をジョイントさせる霊的役割をもっているということが言われています。
ただし、「空間認識の反転が始まると」という前置きに注意。単純に物があればいいということであれば、私の物がいっぱいで散らかった部屋というのが、すごく霊的な役割をもっているということになってしまいます。
カオナシ
実像は物として見えている。カオナシは言いますよね。「千欲しい、千をよこせ」って。千尋にミとれてしまって、物として見てしまっていました。
いきなりカオナシの例を出してしまいましたが、カオナシから見た千尋というのは、現実では人間から見たコップだったり、道ですれ違う魅力的な異性だったりしてもいいわけです。
何が起きているのかというと、カオナシは千尋の、カオナシにとって都合の良い側面しか見ていないということです。ちょっと親切にしてもらっただけで粘着的な好意を抱いてしまうコミュ障の男性というようなイメージがあります。片思いというか、一方通行なわけですから、相手の気持ちというものを考えていないわけです。心というものは知覚正面ですから、だからこそカオナシは相手から見た自分の見え方に気を配らず、顔が無いということです。
銭婆というのは、思形的な役割をしているのかもしれません。ヌーソロジーの心理学で言われる「裁判官」のような感じでしょうか。
カオナシは肥大した状態から比べて、小さく戻っています。千尋から見たカオナシの大きさ、大切さというのは、本来そんなに大きくなかったというような感じかもしれません。
さて、カオナシの話を持ち出していったい何を言いたかったのかというと、それはスマルからミスマルへ、ということでもあります。
銭婆というのが思形的なものだとすると、自己他者モノという元止揚が顕在化して、いい感じになっているというようなことが言えると思います。
所有
「物を対象としてしか見ていない」としばしばヌーソロジー(半田さん)が批判しているのも、こういうことです。
先ほどの散らかった私の部屋、という霊もとい例で言うと、「コップをもし壊してしまったら、私は困ってしまうなぁ」とか。この場合は、もしコップを壊してしまったら、これまで通りの時空概念(家の物品把握)が適用できなくなりますから、ちょっとスマルの膜を破れそうな感じになるわけです。逆に、「ずっと当たり前に俺のコップは存在し続ける」というような意識ですと、それは概念化されていますから、スマルの膜に覆われている状態という感じがします。
あるいは、「朝目覚まし時計に従って起きなければ、会社に迷惑をかけてしまうなぁ。」という例も浮かびましたが、これについては朝日の光だとか、社会性の思形だとか、個人という枠を超えているので別のレベルの話になりそうです。
ともかく、所有しているということは、概念化してしまっているわけですね。
「お返し申す」ってやつなのかもしれませんね(しょっちゅうアニメで話が反れる)。
所有。それは自我の自由度ということであり、自我中心の空間性、すなわち時空ということでもあるのでしょう。
ひふみ神示
ひふみ神示でも次のようなことが言われています。
「捨てるとつかめる」。
ヌーソロジーでも言われる「エポケー」ということに似ていますね。
概念(偶数先手)を捨てることで、知覚や心(奇数先手)が得られる、みたいな。
そういった意味で断捨離とかミニマリストというのも、効果があるのだと思います。物が概念だからよくないっていうことではなくて、物を所有した状態というのは自我の奴隷状態であり、むしろ「ある」というより「ない」ということに近くなるのだと思います。心や知覚において。
以前スピ系の方に「物が見えているけど見えていない」というような感じがするということを聞いたことがありますが、こういう概念化、スマルの膜によって、知覚や心が失われてしまうというようなことだったのではないかと感じています。
スピ系の方というのは現実的な野望などが薄い傾向があるので、こういった事例が起きやすいのかもしれません。バリバリ物質的な欲望のある方であれば、概念化の海をもがき続けることができるので、そういった事象にはならないのかと思われます。
これは物というよりは自分を捨てるという文章になりますが、「平面の上で」という表現は、まさにヌーソロジーで言われる「3次元平面」であり、スマルの膜ということのように思われます。ほんとにひふみ神示はヌーソロジーです。
聖書
聖書を勧めてくる方が今日もうちに来られたのを記念して、聖書についても触れておこうと思います。詳しくないですが。
らくだが針の穴を通る。いったいそんなことができるのでしょうか。
針の穴という小さい空間。小さいと言えば、ヌーソロジーでいうと素粒子ですね。
つまり、ラクダは所有ということをしませんから、知覚正面や心の空間、素粒子の空間にアクセスできるということではないでしょうか。
いっぽうで金持ちは文字通り「幅」の世界に執着しますから、幅の無い奥行きである「針の穴」あるいは「神の国」に入るのが難しい、という感じです。
バシャールの言っている「針の穴」というのも、同じような意味なのでしょう。
これはヌーソロジーでいうところの「奥行き」であり、「重心」であり、「点」ということになります。
そのための乗り物がこちら。ヌースコンストラクション(別名:ヌルポッド)。
聖書の勧誘の方に「どうしてあなたは幸せに生きていられるのですか」と聞かれましたが、安直に「ヌーソロジー」とは言えませんでした。少し迷って、なんとなく「人生にちゃんと向き合っているから」と答えるに留めました。
ヌーソロジーは一神教とか宗教とかと仲良くやっていけないような気がしましたし、別にそこまで仲の良い人でもないということもありました。
グッバイ、「わたし」、「わたしの」「もの」。
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