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NOOSOLOGY/ヌーソロジーまとめ_Ver.20241107

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ヌーソロジーは「無断転載を命ず」

無断転載を命ず

NOOSOLOGY.COMの記事によれば、ヌーソロジーの展開方針は「無断転載を禁ず」ではなく「無断転載を命ず」だと言われています。

(…)少なくともヌーソロジーに共鳴する人たちの動きをヌーソロジーの枠の中で括ろうなんて考えたことは一度もない。実際、過去、現在を含めてヌーソロジーに関わってきた人たちは、各自各様に自分なりのヌース的活動を行っている。ここで「ヌース的」と言っているのは反転の世界像を思い描いているということだね。そして、彼らの活動内容に対して僕の方から注文をつけることもないし、もちろんパテント使用料なんてものも取っちゃいない。ヌーソロジーの展開方針は昔からずっと「無断転載を禁ず」ではなく、「無断転載を命ず」なのよね(笑)。もっと分かりやすくいうと、ヌーソロジーには著作権なんてものはない、ということ。これは開いた思想の絶対条件。ヌースの思考はもはや個人がやっているものではないということが大前提なの。だよね? 反転した世界には従来の自我は姿を消していて、ヌース(神的知性)は宇宙そのものが展開している思考なわけだから、一提唱者にすぎない半田広宣という人物が「これはオレの思想だ」とか言って私物化してしまったらもうオシマイなわけだよ。(…)

https://noosology.com/archive/archive-340/

半田さんがネットで発信されている情報には許可の承諾は不要

転載とは

転載 自身の著作物の従たる範囲を超えて、他人の著作物を複製、掲載すること
引用 自身の著作物の従たる範囲内で、他人の著作物を複製、掲載すること

https://prtimes.jp/magazine/reprint/

転載のルール

ウィキペディアによると、転載する際には以下の項目を守る必要があります。

・転載を許可されている著作物のみを転載する
・オリジナルの内容を改変しない
・転載元を明示する
・再転載をしない

再転載をしないというのは、一次情報を転載するということです。例えば、図表をダウンロードして使う場合は、誰かが既に転載しているものをダウンロードするのでなく、半田さんが発信しているサイト等から直接ダウンロードして使用するのが推奨されるということです。

ヌーソロジーと表相(表象)

表相

表相は、ひとつのものの、見えのこと。

表相は表面により生まれる位相。

電子とは人の意識の定質で、表相を付与している力。

表相は不確定性原理かな。位置と速さの差異の本質。

エイチ・バー。プランク定数割る2π。単位はジュール秒と言います。

表相は世界を表象する次元。

表相は始まりであり終わりです。

表相は次元においてミクロとマクロ。

表相は自他をとりもつ話題かな。

表相はメビウスの輪と関係が。

表化とは発露を作る元止揚。

表相と位置の交差がうまれると、主客分離が解体される――。

反転は、あなたとわたし、そしてモノ――前と後ろと奥行きと幅。

目ではなく、心でないと視えないよ――。

心象にすべての次元を見る知性――。

表相は廻(めぐ)る三球(みたま)の軌跡かな。

表象

⚫︎カタチを生み出すための思考作業

OCOT情報はよく「人間の意識はカタチを持っていない」と言います。これは、物質(表象作用)で世界を見ていることの意です。時間と空間の中で世界を見ていると言い換えてもいいです。

カタチを知っている彼らからすれば、人間は常に結果の世界の中で自然を見ているわけですね。そこには「なる(生成)」や「生み出す(産出)」がないということです。

カタチとは精神の結びのことです。悲しいかな、事実、今の私たちにはこの自己と他者の精神の結び目が見えていない。

この忘却が、人間を転倒した存在にしてしまっているわけです。

だから、OCOTは言うのです。「そろそろ、カタチを生み出しては?」と。

ヌーソロジーはそのための思考作業です。

https://x.com/kohsen/status/1749640929273860450

物質の表象界の外を観る――。

表象・表相・自己

と言って表象に意味がないのかというと、全く逆で、表象は全空間の総意のようなもの。

OCOT情報では表象は「表相(ヒョウソウ)と言い換えられ、精神のすべての次元が集約されているような場所とされる。

4次元(奥行き)が真無限を孕んでいることと同じ意味。自己存在もその意味で表象に立ち上がる。

https://x.com/kohsen/status/1703572041306460232

表象に囚われなくていいけれど、意味の力はここにしかない――。

バシャールが感情(emotion)は「E-motion」であり「Energy-Motion」、つまり「エネルギーを動かすもの」である、ということを解説していましたが、そういうことだったんですね。

オコツトも同様のことを言っています。

 (…)彼らはそれを知っているのです。不確実な力が確実化すると、かえって進化の力が弱まることがあるからです。
(…)
 (…)進化は意識の葛藤が生み出すのです。葛藤がないところに進化は生まれません。人間の持った力は不確実であるがゆえに葛藤が生まれています。それが調整を覚醒へと変えていく力になるのです。

『シリウス革命』p.144

表象を受ける側から生む側へ。

ひふみ神示でも、表象に関して記載されています。

ひふみ神示 第五巻 地(九二)つ巻

第十三帖 (一五〇)
赤い眼鏡かければ赤く見えると思うてゐるが、それは相手が白いときばかりぞ、青いものは紫にうつるぞ。今の世は色とりどり眼鏡とりどりざから見当とれんことになるのざぞ、眼鏡はづすに限るのぞ、眼鏡はづすとは洗濯することざぞ。上ばかりよくてもならず、下ばかりよくてもならんぞ。上も下も天地そろうてよくなりて世界中の臣民、けものまで安心して暮らせる新(あら)の世に致すのざぞ、取り違へするなよ。九月二十三日、一二。

https://hifumi.nakamuramakoto.net/all.html

表象は色とりどりの眼鏡たち。

表象、つまり物質世界は映画『マトリックス』における仮想現実ということもできます。マトリックスとザイオン、ネオとエージェント・スミスといった構造については『奥行きの子供たち』のp.256で述べられています。

ヌーソロジーとルネ・マグリット

ヌーソロジーを通じて、科学だけでなく芸術にも触れ合えるというのは素晴らしいことだと思います。

人間の条件

人間の条件。内部は主観世界で、外部は客観世界です。その光景(知覚正面)が絵画(三次元平面?)のように知覚されるか、外部の三次元空間のように言葉で概念化されるか。大森荘蔵の「面体分岐」もまた同様の意味があるようです。

イメージの裏切り

"これはパイプではない"。どういうことでしょうか。これはパイプの絵であって、パイプではないということでしょうか。イメージの裏切りとは、何を裏切っているのでしょうか。

そうです。パイプではないのです。三次元的な物というのは、実際の知覚ではなく、言語による概念というわけです。平面的(三次元平面的)な絵画としての見え方で言えば、それは実際的な知覚であると言えましょう。パイプだと思わせておいて、実際のところ、パイプという3次元的な物は、時間をかけて、角度を変えるなどして見なければ認識できないのです。

イメージは裏切っています。実際は、三次元空間(4次元時空)というものは知覚できないのです。表象であり、幻なのです。実際は4次元空間であり、自己の記憶や持続といった、ハートや思い出といった、高次の、スピリチュアルな、あるいは霊的な構造によって成立しています。

ニュアンスが面白いですが、「イメージや心を裏切った物が、対象としてのパイプである」と言うこともできますし、「対象として、単なる物として見ていたパイプが、実は自己自身の精神や霊性となるものだった――」と言う意味では「裏切り」ということもできるかもしれません。

複製禁止

他者の眼差しは鏡のように働いています。

複製禁止というのは、意識の位置である垂質次元(鏡の外側の位置)を、垂子次元の像(自分という個体)に落としてしまっている、ということに対する問題提起と言えます。

ヌーソロジーでいうと、「観察はひとつ上の次元から行われる」ということですね。3次元である鏡の世界は、3次元の中からは知覚できないということです。

肉体から見ているという見方は、ヌーソロジーで言われる人間型ゲシュタルトということであり、スマルの膜ということが言えます。
心や知覚というものは、そういう次元には無いということですね。

文脈によって見方や意味が変わるのもヌーソロジーの醍醐味です。

この場合、複製禁止というのは、意識の位置である垂質次元(鏡の外側の位置)に、垂子次元の像(自分という個体)を複製してしまっている、ということに対する問題提起になります。

例えば、スピリチュアルでいうと、「アセンションしたら私の体が霊的なライトボディになるのだわ」というようなことに対する問題提起という感じです。体というのは物質的な、表象的なものですから、「霊」とは別物です。あくまでも表象されたもの、表現されたものなのですから、受動的なものに属しています。

量子力学に対応させることもできますね。ヌースコンストラクション、通称NCに乗り込みましょう。

偽りの鏡

偽りの鏡とは、何を偽っているのでしょうか。「偽」という字は「人の為」と書く、そういったことを言う詩人もいました。

自分の目というものは見えません。他者の目というものは見えます。自分の視野面において、他者の目というのは点のように見えます。自己の視野面(知覚正面)と他者の目(点)を互いに結ぶと、マカバというカタチが見えてきます。

エーテル核としての太陽は光を食するといいます。物はそこから生まれてくる、と言われていますが、それはマカバ(キアスム)という電磁場から物が生まれてくるということでしょう。

恋人たち(Les Amants)

"人がペルソナを捨てたとき、恋人たちの共同体が現れる"。なぜ顔を覆っているのでしょうか。
自分の顔は、自分には見えません。ヌーソロジーでは顔は「後ろの空間」ということが言われてますね。
自分の心(知覚)というものは、顔のある「後ろ」ではなく、「前」ということになります。まさに、日本語でいう「お前」ですね。
この「前」というのは、「自分が見る前」というわけでなく、「非局所的な空間」から来(きた)る「前」ということです。つまり、主体は「自分」ではなく、知覚正面としての「地球」ということになります。表相とも言いますね。もはやそこにおいては見るものと見られるものが一致してますから、これを「主客一致」と言います。反対に「自分が見る前」といったときは「主客分離」ということです。
互いに、主体の位置が前にあるというか、思いやりや愛情があるというか、そういう感じがします。そのとき、もはや恋人たちは、彼ら自身の肉体としてでなく、心魂あるいは霊といったレベルにあるということが言えるでしょう。だから、顔を覆っているのです。ある意味、死んでいる(心魂あるいは霊的に生きている)とも言えます。

観念(The Idea)

https://www.fujibi.or.jp/collection/artwork/03577/

東京富士美術館さんというサイトで公開されています。

地球ということですね。主体の位置がリンゴになっていますので、位置の変換ということのように見えます。

「木の実と鳥、見つめる鳥」という、ウパニシャッドの逸話が思い出されます。

ヌーソロジーとAdS/CFT対応

AdS/CFT対応(AdS/CFTたいおう、anti-de Sitter/conformal field theory correspondence)は理論物理学における対応関係でヤン=ミルズ理論に似た理論を含む共形場理論 (CFT)及び反ド・ジッター空間(anti-de Sitter; AdS)を用いた量子重力の理論を対応付けるものである。この対応関係はマルダセーナ双対(マルダセーナそうつい、Maldacena duality)あるいはゲージ/重力双対(ゲージ/じゅうりょくそうつい、gauge/gravity duality)とも呼ばれる。この対応は弦理論やM-理論のことばで定式化される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/AdS/CFT%E5%AF%BE%E5%BF%9C

量子重力に関するAdSと、リーマン面に関するCFTを対応させるということです。リーマン面とは『人類が神を見る日 アドバンスト・エディション』でしきりに登場していたアレですね。

⚫︎今のマイブームの話で、何度もすみません

結局のところ、CFTは現代のイデアとも呼べるものであり、AdSは洞窟の壁といえる。AdS/CFT対応の構成全体はプラトニズム的構成になっているということ。しかしも、この構成自体が双対性(こちらは自他関係に由来)を持っている。

誰も気づいていないようだけど、ヌーソロジーから見れば、これは、私たちが認識する物質世界(AdS)が、精神の形(CFT)から反映されて生まれているということが、物理理論的に証明されたとも言える出来事。

なんでマイブームになっているか、これで分かるのではないかと。

https://x.com/kohsen/status/1853111509003702726

あたかもヌーソロジーの言っていたことに、現代物理学が追い付いたかのようです。

●AdS/CFT対応とNC

半田さんが執拗に言われている、自己視点とか他者視点ということにもつながっているようですね。

球面アート(『Flatball 2019 No.01 (2019) 』)

鮫島大輔さんの作品がヌーソロジーの参考になります。

https://x.com/samejimadaisuke/status/1188405800663801856

⚫︎時空(重力場)から意識を出す方法について
(画家の鮫島大輔(
@samejimadaisuke
)さんに感謝)


この作品が示唆している内容について、まだよく飲み込めてない人もいるようなので補足の説明をしておきますね。とても、重要な図像的表現のように思えるので。

他者が見ている宇宙というのは、実は自己にとって「物質の内部」に相当している。つまり、僕たちが他者視点で宇宙を捉えると、実は自分自身を物質の内部に閉じ込めていることになるということ。この図はそのことを端的に示した図だと考えるといい。

言い換えれば、自己が他者と同じ視点で物質や宇宙を見てしまうと、その時点で「物質の内部」という認識の枠に縛られてしまうということだ。

だから、本来、自己が見ている本来の世界は、そのような他者視点でとらえらた「宇宙」の外にあると考えないといけない。これは、決してSFの話ではないよ。意識の実際の構造がそうなっているという極めて現実的な話。

念の為に補足しておくと、ここでいう「物質の内部」とは、物理的な意味ではなく、僕たちが現在、通常の認識で捉えている外延的な世界を意味している。この外延の認識が他者視点に基づいているために、僕らはその空間の中に「閉じ込められた」状態にあると言ってるわけだ。

したがって、自己の視点を他者から切り離し、純粋に主観的、かつ内包的な意識に基づく視点を持つことが重要になる。ヌーソロジーはそこから世界を見直しているわけだね。

そうすることで、僕たちが現に見ている「物質の世界」が、自己にとっては、もはや外部ではなく、自己自身の精神の投影であるということが理解されてくるわけ。ここに現れてくるのがフィシスの世界だよ。

このように、従来のような物質の内部に閉じ込められた認識を越えて、「外」に出ることが、意識の転回としての本来的生のあり方。この生に立ち戻ろう。

https://x.com/kohsen/status/1846781144232284570

球面アートで表現されている空間(次元)は、ヌーソロジーでいうとAdS空間というものに対応していると言われています。

スマルの核質膜ということなんですね。

マッハの自画像と見え方は似ているような気もしました。
違いは何かと言えば、球面アートでは「球面化」しているということでしょうか。球面(2次元球面であって、3次元球面ではない)とか球体(3次元球体)というのは、SO(3)とか言われているやつですね。

ヌーソロジーと人格(仮面)

パーソナリティ=ペルソナ(英語の綴り的に似ています)。

従来の「自分」と新生する「自分なき自分」。この二つの人格を併せ持つことが必要になると言われています。

別人……どういうことでしょうか。これまでの「後ろの空間」としての自分に対して、人間の外面という「前の空間」が開かれたとき、そこには新たな位置をもつ主体とともに、ハイヤーセルフとも呼べるような新たな人格が芽生えてくるということでしょうか。

人格や仮面といった表象も、意識進化の母胎と言える――。

ヌーソロジーと意味

「無核質、核質、反核質」は「物、言葉、意味」

無核質、核質、反核質という力は、物、言葉、意味、ということを表しているようです。

核質……正八面体
無核質………正六面体
反核質………ベクトル平衡体

https://x.com/kohsen/status/1753229907210150384

幾何学に対応しているというのは興味深いですね。

ヌーソロジーとひふみ神示(日月神示)

マルチョン

マルチョンは4次元軸の奥行きか。

マルチョンは位置の等化と呼ばれてる。

円心で反転をしているのです。

横と縦

横と縦、幅と奥行き、単位円。

実軸・虚軸、複素2次元。

https://hifumi.nakamuramakoto.net/all.html

縦が喜び、横も喜び。縦は表で横は裏。表裏合わせて丸十字かな。

丸十字、永遠力を表して妙性質はオイラーの式。

太陽、地球、月

物質を反転させて、エーテルへ。

・月(物質化した物)を中心とした空間は「ある」空間。
・地球(自分)を中心とした空間が「いる」空間。
・太陽(精神化した物)を中心とした空間が「なる」空間。

https://x.com/kohsen/status/1765020350516207670

太陽と月と地球の子供たち。

’(参考)太陽と月と地球の自転・回転。

数霊と形霊と音霊と言霊

音霊が数と形に映されて生じるものが言霊という。

(…)めぐりだけ取って行って下さる仕組ぞ。苦しめたら改心中々ぢゃ。喜ばせて改心結構ぢゃなあ。総てを愛せよと申すのは、高い立場のことで御座るぞ。九九(ココ)には九九の立場あるぞ。よく心得なされよ。世の中には順序あるぞ。それがカズタマ(数霊)、動くと音出るぞ。それがコトタマ(言霊)、ものには色あるぞ。それがイロタマ(色霊)。(十二月十四日)

https://hifumi.nakamuramakoto.net/all.html

世の中の順序の霊が数霊で、動き出る音、それが言霊。
ものにある色は色霊、十人十色。

ウシトラコンジン様

ウシトラコンジン様を先づ理解せよ。どんなことでも叶へてやるぞ。理解するには、理解する心、先づ生まねばならん。われよしでは拝めんコンジンさまぞ。天地総てのもの、生きとし生けるもの悉く、よりよくなるやうに働いてゐるのであるぞ。それが神の心、稜威(みいつ)ぞ。弥栄と申すものぞ。その時、その人間のキに相応した神より拝めん。悪いキで拝めば何んな立派な神前でも悪神が感応するのぢゃ。悪神拝んでも正しき愛と喜びあれば、善き念が通ずるならば、悪神引込んで、それぞれの善き神 現はれるのぢゃ。この道理よく心得よ。(一月三日)

https://hifumi.nakamuramakoto.net/all.html

「ウシトラコンジン様を先づ理解せよ。どんなことでも叶へてやるぞ。」
とあります。
それ、ヌーソロジーならできますよ。

虚軸への反転方向。

45度の交差は90度「反転」を意味します。
幅と奥行きの交替化です。
時空と複素空間、太陽とシリウスが支え合っています。

「存在を45度回転させること。」とは。

時間と空間の直交性(90度)が対向性(180度の反転性)であり、虚軸方向へと出る方向は斜め45度。
時間と空間の直交座標系では、光速度の位置(光円錐)。光は1光年を1年で進むので、その意味で比率が1:1という感じですね。

ウシトラコンジンは、十二支の時刻の向きでいう丑・寅、つまり45度の方角にあたります。東北ともいいますね。

東西南北を空間と時間の直交と対応させるならば、ウシトラコンジン様は光速度の位置であり、虚軸への反転方向となります。この4次元の軸は太陽やシリウス、時空や複素空間という観点から、光として、知覚として、ヌーソロジーで言われる「人間の外面」として、理解することができるでしょう。

瞬間場。位置の等換。表相ですね。

日本神話

イザナギとかイザナミという話は『人類が神を見る日』などの本に述べられていますが、レクチャーDVDなどでは他にもいろいろな解説をされています。

ヒルコは人間のことだといいます。

ヤマタノオロチは時空のことだといいます。

タカミムスビとカミムスビは、物質として現れる内の結びと、再び内に向かう方向性として心を作る外の結びのことだといいます。

"別天津神(ことあまつかみ)は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々である。"(ウィキペディア)

産霊(むすひ)とは「あなた」と「わたし」のことでした。

自己側がアマノトコタチ、他者側がクニノトコタチ。生み成る力。

ミスマルの結びを反復させるもの、その名はアメノミナカヌシかな。

ドゥルーズとガタリの語る哲学が、日本神話に通じてるのか――。

創造は人間からしか起こらない――。

ダイジョウシン、北極星と鉄の神。アメノミナカのヌシのことかな。

ヌーソロジーとスサノオとヤマタノオロチ

今、なぜ、スサノオなのか

なぜスサノオなのでしょうか。スサノオはヤマタノオロチを退治したことで有名です。
出雲ヌースフェスには参加できないので、自主課題としてまとめておきます。

ヤマタノオロチとは時空のことです。あるいは、最新の半田さんの表現でいうと時空ではなくてAdS空間といったほうがいいのかもしれません。

十種の神宝

ヤツカノツルギとありましたが、八握剣(やつかのつるぎ)とは十種の神宝のひとつです。
トツカが二組でヤツカと言われてました。

いろいろな呼び名がありますが、ヌーソロジーでみると意味がよくわかりますね。

ヤマタとヤツカ、同じ8でも違う意味。

人という字は、個人的にはトゲのような形に見えます。ハバというのはヘビという言葉と同じような由来らしいですね。

トツカというのは十字のツカ、ということであれば、それはモロに、ヌーソロジーで言われる複素平面のことになるでしょう。虚軸と実軸の十字です。これを自己他者で組み合わせてヤツカになるという感じでしょうか。

十種の神宝では蛇比礼(おろちのひれ)というように、ヤマタノオロチでさえ神の宝として組み込まれている節がありますね。これは他者視線や時空として、個体としての各々を包み込むという意味でのヒレ、ということでしょう。物としては必要ということです。
いっぽうで、十種の神宝では八握剣(やつかのつるぎ)というのもあり、こちらは位置の等換のように、受動的でなく能動的に時空に参入する状態であると思われます。ハバを切って、奥行きに参入するということですね。

日本神話だと思っていたら素粒子物理学や幾何学だった――逆に言えば、素粒子物理学や幾何学、ヌーソロジーは日本神話のように楽しめるのです。

ヘキサチューブル

⚫︎ヘキサチューブルの数学的構造

ヘキサチューブルとSL(2,C)


3次元球面

3次元球面と3次元双曲面

3次元球面は2つの2次元球面で描像される

その他・未分類・メモ

空間のコンパクト化

空間のコンパクト化という仕組み。

シリウスA組とシリウスB組

『人類が神を見る日』のp.360~p.365を参照。

アクアフラット


ヌーソロジーと芸術

『Everything in Its Right Place』と『BACKSTORY』

Everything in Its Right Place (Radiohead)

About This Song :

Story:

Noosology :

「Right」は歌詞での意味では「正しい」って意味らしいですが、ヌーソロジーでいうと判断や超自我という意味では「大文字の他者」ということにつながり、「右」という見方もできます。英語で「右」と「正しい」が同じ「Right」なのは、そういう意味があるのかもしれません。(直交関係という意味では「左」でもいいのかもしれないですね。)あと、光というか、明るいというのが「Light」というのもヌーソロジーにマッチしてますね。思形とか光といった意味です。

わたし。

大文字の他者。架空の第三の視点。善と悪、正と負、酸いも甘いも……元の曲の歌詞にも合っていますね。

BACKSTORY (written and directed by Joschka Laukeninks)

半田さんのポストされた動画は、『BACKSTORY』というショートフィルムを元にして作成された二次創作のようです。英語だからよくわかりませんが。

vimeoっていう動画配信サイトで見れるらしいです。

感動するのはなぜでしょう。いや、むしろこの動画というのは、感動しない部類なのかもしれません。なぜなら、俯瞰的な、思形的な視点だからです。
だって、登場人物というか、主人公の背中側しか見れないのです。

しかしながら、思形的な意味では、ある意味感慨深いものがあるのかもしれません。キリスト教というか、そういう宗教圏の人々にとっては、このフィルムは一神教の神のような視点か、あるいは天使や精霊、守護霊といった視点のような崇高さがあるのではないでしょうか。

そういう文化的背景という点でヌーソロジーを見てみるのも面白いかもしれません。例えば日本でアニメとかVtuberとか、ライブ配信とかが人気というのは、この動画とはまったく逆で、顔を視聴者側に常に見せるような構図になっているでしょう。つまり、一神教的な文化では思形的に、俯瞰してみるというのに対して、日本のような感性的な文化では、むしろ見られる側に位置する、というようなことが言えるのではないでしょうか。

捻じれが合ったり、自己他者だったりなので、単純に二元的な構造ではないので難しいとは思います。

でも、片方だけに偏らずに、どちらの視点、位置も大事にするというのは、ヌーソロジーでいうと等化とか対化とか、そういうことになるのではないでしょうか。

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