「病気みたいなもんだから」
「積ん読が10冊以上あってさ」。
父は口にした。
今年も残りわずか。
何かやり残した事はないか?という話になり出てきた父の言葉である。
もう12月も僅かだというのに、まだ積ん読が10冊以上あるらしい。
私も積ん読が少しあるので、今年中に読み切りたいとは思っている。
「じゃあ今年ももう少しだけど、目標は積ん読をなくすっていうのはどう?」と私が提案すると、父は「いや、それは無理だな」ときっぱり。
どうしてと聞くと、「まぁこれはもう、病気みたいなもんだから」と話した。
「病気みたいなもん」。
その時は「それじゃあ仕方ないね」と流したが、この「病気みたいなもんだから」という言葉は、後々考えると、何か都合の良い言葉に聞こえてならなくなった。
「病気みたいなもんだから」、確かにそう言われてしまうと、もう次の言葉が出てこない。
しかしこの「病気みたいなもんだから」という言葉は、何かをやろうとしないことのただの逃げ言葉なのではないだろうか。
「疲れたときに甘いものが食べたくなるんだよね。まぁこれはもう自分の病気みたいなもんだから」。
「運動しようとするとついソファーに座ってダラダラしちゃうんだよね。まぁこれは病気みたいなもんだから」。
「寝る前のスマホが止められないんだよね。病気みたいなもんだからしょうがないか!」。
自分にとって都合の良い言葉に他ならない。
「病気みたいなもんだから」と言っていて、実際病気ではない。
自分の努力が足りずやろうとしないだけである。
それをあたかも「病気みたいなもんだから」と片付ける。
なんとも自分に都合の良い言葉である。
じゃあやる気がない時、何でもこの言葉で片付けられてしまうのではないか?
人は、本当に病気になったら放置せず治すだろう。
じゃあ「病気みたいなもんだから」と言っているその病気も直さなければいけないのでは?
「病気みたいなもんだから」と自分の都合の良いように解釈し、逃げてばかりいると本当にその「病気みたいなもん」は病気となる。
だから「病気みたいなもんだから」と自分の都合よく解釈して諦めるのではなく、きちんと予防、対策をしなければいけないと私は思ったのだ。
かくいう私もかなり辛口なことを書きながら、つくづく自分も「病気みたいなもんだから」と考えている事はあるなと思う。
自分で書いていてなんだか、耳が痛い。
来年こそは、間食を少し減らしたいと思いつつ、今この文章を書きながらお菓子を食べている。
まぁこれも「病気みたいなもんだから」。