烏と魔女 1 (ファンタジー)
烏と魔女
年老いた魔女が森の中から這々の体で出てきた。もじゃもじゃの白髪頭には木の葉っぱやら鳥の羽やらがくっ付いている。腕には紐でぐるぐる巻きにしたカラスを抱えている。
魔女はもう幾晩もこの雄カラスをを捕まえようと躍起になっていたのだ。初めはすごく簡単に思えたのだ。ちょっとした罠と呪ないで容易に捕まえられるとタカをくくっていた。しかし、雄カラスは魔女が思ったより力があり、罠を簡単に壊してしまった。それに頭も良かった。同じ罠には掛からないし、ちょっとした変化も敏感に感じ取り、やすやすとは捕まらなかった。
魔女は意地になってこの雄カラスを捕まえにかかった。 この老婆は木に登ったり、地面に穴を掘ったりと、およそその歳の女性には出来そうもないことをやってのけた。それでもうまくいかないとなると、遂には、虎の子の呪ないを引っ張り出してきて、雄カラスをなんとか押さえつけたのだ。
魔女はあたりの雑草も顔を赤くするような呪いの言葉を吐き続けながらしっかりとカラスを抱えて家に戻った。
雑然とした、一見雑草の様な草木が生い茂る前庭を、魔女はいつも通りに素早くくねくねと歩いて、潰れそうな石造りの家の扉を開けた。魔女の家は大きな居間しかないようだ。隅にベッドが置いてある。部屋の中には大きな木のテーブルがあり、奥には暖炉があってそこに大きな魔女の鍋が掛かっていた。暖炉の脇には太い鎖が一本しっかりと床下の土台石につながっている。一体何を繋いでおくためのものか、鎖の先には金属の輪っかが付いていた。
家の中は物が所狭しと置いてある。天井や梁からも色んなも物が吊り下がっている。物でほとんど塞がれた窓から夕日が薄暗い部屋に差し込んでいる。ローズマリー、タイム、ローレル、毒人参、黒イモリ、マムシ、白樺、それから腐乱したネズミ。そんな物の臭いがした。
魔女は大きな音を立てて扉を閉め、そのまま急いで暖炉の脇に来た。
そこには琺瑯の洗面器があり、その上に止まり木が渡してあった。それはかなりしっかり作られていて、その大きな雄カラスが暴れても大丈夫そうだ。
兎にも角にも、魔女はそのカラスの足を牛の腸から作った紐で固く結びつけた。そもそもカラスは嘴から羽根の先まで紐でぐるぐる巻きにされている。全く身じろぎもできない。
魔女はやっと安心した顔をした。やれやれ、やっとこさ、この憎たらしいカラスを捕まえてやった。魔女は竃の火を起こし、鍋に入っている一昨日のシチューを温め直した。次いで大きな汚いブラシを引っ張り出してきて髪をといだ。髪にくっ付いたゴミが取れる度に悪態をついた。服についた汚れもそうやって払い落としたが、髪や体をお湯で洗う気はなさそうだった。シチューを食べ、薬草で入れた臭いお茶を飲みながら、魔女は暖炉の脇に座り込んだ。ゆっくりと囚われのカラスを眺めた。雄カラスは、雄々しく立派な体をしていた。たくましい筋肉がその羽毛の下で盛り上がり、大きな嘴と鉤爪が黒光りしている。
魔女は満足そうにため息をついた。ここまで来れば、後は魔女の大好きな魔法掛けを残すばかりだった。
魔女はよく切れるナイフを取り出すと、踊るように軽やかに、カラスの首の辺りと内腿辺りを切り裂いた。赤い血が流れ始める。首の傷から漏斗を使って、薬を注ぎ入れる。これで、血が固まらずに、最後の一滴まで流れ出すはずだ。
赤い血は鳥の足を伝って、鉤爪を流れ、その先から白い洗面器に滴った。洗面器に血が溜まり始めると、魔女小さな瓶を持ってきて中身を大事そうに慎重に注いだ。ほんの少しだ。中身は辰砂と塩と酢と、それに大切に取っておいた魔女の経血だ。魔女は瓶の中身が本当に惜しいらしく、途中で注ぐのを止めて、代わりに唾をそこに吐いた。経血に比べれば唾は力は弱いかもしれないが、いくらでも出てくるのだから。年老いた魔女にとって、自分の経血の蓄えは、とても大事だった。
血と一緒に烏の魂は流れ出て、琺瑯の洗面器の中に溜まっていった。そうして、魔女の薬と混じり合って、そこに囚われた。干からびた体からもまた、魂は抜け出しきれないでいた。止まり木に足ごと魂が括られているのだ。
死にゆく肉体の苦しみと縛られた魂の苦しみに烏は身悶え、その怨念が止まり木の上の死骸に黒く蟠った。
魔女はその魔眼で、その様子をつぶさに観察し、喜んだ。素敵なものを自分の手元に縛り付けておく事は喜びだった。
烏の血が全て抜けてしまうと、魔女はその足を切った。左右の鉤爪は止まり木に括り付けられたままだ。魔女は鶏の鉤爪を用意していた。それを烏の足に膠と紐でしっかりとくっ付けた。それから綺麗に紐を全て解き、羽をなで付けると、魔女は命令した。
「動け」
すると、烏は催眠術から覚めたように、起きあがり、魔女に捕まる前と同じようにしっかりとした足取りでピョンピョンと床を歩き、大きな羽を広げて飛び上がった。そして低い天井の梁に止まった。これでこの烏は魔女の思うがままだった。
次の日、雄鶏の夜明けを告げる声で起き出した魔女は、まず、鶏小屋に行き卵を取り、それから山羊小屋に行って乳を絞った。山羊はすっかり年老いていたので父が出ない。すると魔女はヤギに呪いをかけて乳を出した。山羊は苦し素王にうめいた。朝に仕事を片付けてしまうと魔女は烏に言った。
「行って外を見ておいで」
カラスは羽を広げると、窓から滑るように出て行った。魔女は早速洗面器を覗き込んだ。しばらく見つめていると、血の中に外の景色が浮かび上がってきた。烏の見ている風景だった。血に残った魂と飛んでいる体に宿る魂は元は一つの魂だったから、同じ景色を写し出すのだ。魂をこんな風に引き裂くのは何という背徳。しかし、魔女はそんな事は思い付きさえしないのだった。
魔女は午後いっぱい、そうやって外の景色を楽しんだ。疲れを知らない烏は何時間も飛び続けた。午後遅くなって、片目の潰れた老黒猫が、洗面器を覗き込んでる老魔女の足元を通り過ぎた。魔女はびっくりして飛び上がった。そうだ、猫の餌を昨日からやってなかった。烏を捕まえるのに忙しかったからだ。それに鶏にも餌をやらないといけない。そうだ、卵を産んでいるか確かめないと。それにもうあのシチューは駄目になってしまっている。何か食べるものを作らなくては。
魔女は急に忙しくなって、烏のことを忘れてしまった。
雄烏は急に自由になった。
雄カラス
雄カラスは急に自由になった。魔女の悪臭は身体に纏わり付いているが、それは今は雄カラスを縛り付けてはいなかった。雄カラスはこの辺りでは最も逞しく賢いカラスで、辺りのカラスを束ねるもので、また、連れ添いとの間に四羽の子ガラスがいた。まだまだ巣立ちは先で、みんな腹を空かせていた。正気を取り戻した雄カラスは一目散に巣に帰って行った。
雄ガラスの巣は杉の大木の天辺にあった。そこは雄ガラスの戦利品で作られた巣だった。ピカピカ光るものや色とりどりの糸や紐、金銀鉄の破片や針金もあった。しかし寝るところは新しい藁でできていた。しかしその藁は乱れて汚れていた。あの魔女の所為だ。その乱れた巣の上に羽を乱してさめざめと泣いている美しい雌ガラスがいた。雄ガラスの愛する妻だった。雄ガラスが翼を広げて巣に近づくと、その影を見た妻は自分の夫を思い出して振り向いた。
「あなた!」悲嘆にくれていた妻は喜んで夫に寄り添ったが、パッと飛び離れた。
「まあ、あなたは私の夫なの?」
雄ガラスの体には魔女の悪臭がまとわりついていたし、あの暖かかった身体は死んだ土鳩のように冷たかったからだ。
「我妻よ、私は魔女に捕まってしまったのだ。今は運良くここに帰ってこられたが、またいつ魔女に呼び戻されるかわからない」
「なんということでしょう。私はこれからどうしたら良いのでしょう」
カラスの巣には雛がいた。妻一羽では、子供たちを十分に育てられるかわからない。
「なんとか考えて、魔女から逃れるようにしてみよう」
そう雄カラスは言った途端、目から光が消え、魔女の心に支配されて飛び去った。
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