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情熱

西暦2824年。トミオは目を覚ました。そこは病室だった。
「目が覚めましたか」ドクターが言った。
 私はそれに答えた。気分はいい。しかし、少し記憶に混乱がある。
「ああ、一時的なものです。しばらくお話ししましょう。すぐに良くなりますよ」
 私は自分の状態を聞いた。
「トミオさんは、人工細胞による若返り手術を受けたのです。ええ、みなさんがするように。もちろん上手くいきましたよ」
 私は自分のリアルタイムホログラムを見た。そうだ。確かに若返っている。今の時代、人工細胞を注入することにより、寿命は無制限に伸びる。この処置ができるようになってまだ100年ほどだが、この100年老死した人はごく少ない。代わりと言ってはおかしいが、新しい子供が生まれることは稀になった。それがこの若返り処置のためなのかどうかは議論されているが、はっきりとしたことはわかっていない。世界は見た目が若い老人で大半を占めている。子供は、ほとんどいない。いいこともある。人は穏やかになり、他人に思いやりがあり、戦争も無くなった。私は、新しい処置について聞いた。
「しばらくすれば思い出すと思いますが、お話ししましょう。新しい処置は、心の若返りです。カント想定器官に変更を加えました。いえ、物理的にそんな器官はないので想定器官と言います。実際には細かいニューロンの接合や器質に手を加えます。危険はありません。トミオさんの記憶は完璧なままです。これによってトミオさんの心は若返ったのです」
 そう言ってドクターは私に新鮮なオレンジをくれた。私はそれを一口食べた。なんというみずみずしさ。この甘さと酸味。そしてこの芳香。初めてこんな美味しい果物を食べたと思った。私は天にも昇る気持ちだった。
「美味しいでしょう」
 ドクターによると、私の記憶は完璧にそのままだ。実際、自分の仕事の技術的なところを思い返してみたが、はっきりと思い出せた。
 そこに、若い女性が入ってきた。妻のヨーコだ。私は、これまでのヨーコとの生活を隅々まで思い出すことができた。初めての出会い、結婚、旅行の思い出。しかしそれはまるで、昨日見たテレビドラマのようなものだった。まるで初めて会った人を見るようだ。よく知ってる知らない人。
「つまりですね。記憶はそのままですが、「実感」を消し去ったのです。これからの生活を新鮮に送るために」
 そういうことか。今までの妻との時間は、消えたも同然ではないか。しかし、悲しくはなかった。初めから持っていなかったことと同じだからだ。
 ヨーコは、微笑みながら、私の方へ歩いてきた。その微笑みはなんと可愛らしいことか。私の胸は高鳴った。
「ねえ、君ってすごく素敵な笑顔してるね」私は、言った。


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