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「妬みや嫉妬、羨望、その感情はすべて幻想だ」

妬みや嫉妬の感情はすごいものがある。
小学生の時に知ったことである。

妬みや嫉妬の小さい感情は幼稚園くらいから
感じていた。
人が人に向けるその感情を観察していたからだ。

自分がその感情をダイレクトに受けたとき、子供であった私は衝撃を受けた。

とてつもない負の感情。
粘着であり、どす黒く、震えが出るような大きなもの。
一分たりともその感情に触れたくないと思うほど大きいものだった。
人数が多くなると、その感情の増幅するように感じた。

その感情をダイレクトに受けたのは、

小学4年の時に、クラスメイトの前で読書感想文を読んだとき。
先生がよく書けてる人がいるから読んでもらいましょうと言って、私を指名したときだ。

2つの感情を感じた。
うわ~、すごい、という羨望の感情。
もう一つは、妬みと嫉妬の感情であった。
負の感情は羨望の感情を飲み込み、私に襲いかかった。
ゾッとするような感覚がした。

もう一つ、小学6年の時。
陸上の大会に出場するときに全校生徒の前で
紹介された時だ。
出場する人たちが並んだ瞬間から、羨望と妬みと嫉妬が感じ取れた。
感想文を読んだときのことを思い出した。

ただその時を上回っていた。
人数が多いからである。
私から見たその感情は、入り交じりとぐろを巻いていた。

怖かった。
その感情に飲み込まれたら壊れてしまう。

その後、社会に出るまで私がしたこと。
それは、人より目立たないこと。
ある程度でおさめること。

具体例で言うと、
成績は中の上くらいで維持、
スポーツは適当にすること。

要するに、出来すぎると目立つ、出来なくても目立つ。
だから、中間の少し上にしておく。
簡単なことであった。
要するに、何もしなくていいからだ。
ただただ、早く社会に出たいと思っていた。

目立てばたたかれる。
そういうことだと感じていた。

だが、社会人になり、仕事を始めて変わっていった。
仕事は評価である。
学歴はないが、仕事では勝負ができた。

学生の頃は檻の中に閉じ込められている。
その閉鎖的な環境の中、檻の中だけで比較され続ける。
そうすれば、比較された側はどうなるだろう。
そこに感情が生まれて当然だ。

社会に出たあとは、ハングリー精神と持っていたものが相乗効果となり、どんどんキャッチアップしていった。

今、仕事ができると言われる。
そこにも、かつて味わった感情が入りこむ。
だが、今はなんとも思わない。
別にできるとも思っていない。
私には、ごく普通のことである。
普通という言葉を使うのは嫌だが、そのほうがわかりやすいからあえて使う。

私が強くなり、
かつ、嫉妬と妬み、羨望などの感情の奥にあるものを知ることで平気になった。
嫉妬と妬み、羨望にも心の底に深く根強くあるものがある。
個人個人、その要因は違う。

そんなものに左右されていただけだ。
ヒトの世界は比較の世界である。

誰かと比べて優越を感じたり、劣等感を感じたり。

そろそろやめないか?
誰かは自分ではないし、誰かは標準ではない。
相手にする必要はない。
堂々としていればいいのだ。

あなたはあなたにしかない財産を発揮したらいい。

何もない、と悲観する必要もない。
なぜ、悲観するのか、に問題がある。
過去をたどるとその理由があるかもしれない。

自分の人生を生ききることが重要だ。
それ以外は必要ではない。

妬みと嫉妬、羨望。
すべての感情の裏に何かがある。

結局、ヒトの世界に渦巻くものが、心の魔物にささやいただけだ。

ただの幻想だ。

幻想に惑わされず、自分を生きることをおすすめする。


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