「悪いのは騙した方か騙された方か」論争が終わらなかった理由
「騙した方が悪いのか、騙された方が悪いのか」という論争は古代からある。
とても重要かつ根幹的な題目なのに、人類の長い歴史と広い知見をもってしても議論が続いていること自体が奇妙にも思える。
本文ではこの議論について考察したい。
数の多寡で言えば、騙した方が悪いと考えている人が明らかに多いだろう。そして結論としては、自分もこの多数派に属する。
以下、「騙された方が悪い論」が誤っていることと、その誤謬を招いた背景を論述する。
「騙された方が悪い論」は、議論の対象・焦点を全て、騙された側にのみ振り向けている。
欲に目が眩み、子供騙しに引っ掛かった。官憲の手を煩わせ、怪しい輩の養分となった。等々。
このように焦点を一方化させている時点で、論者が導き出したい結論があらかじめ決められていると言える。
言うまでもなく「騙されたこと」よりも「騙されなかったこと」の方が望ましいに決まっている。そして完全な人間・完璧な行動などあり得ない以上、「騙されたこと」への粗探し・難癖など後からいくらでも挙げられる。
騙されたことの落ち度が一つ以上あり、そして騙された方だけを評価対象とし続ける以上、いつまで経ってもその視野の中では「騙された方の悪さ」しか現れない。
しかしそうした不注意をいくら羅列したところで、「それで騙した行為がなかったことになるのか、罪悪が免責されるのか」という素朴で簡明な疑問への回答は永久に示されない。
極端に、あるいは戯画的に言えば、「騙された方が悪い論」とはすなわち、「騙された者には何らかの至らなさがあり、そしてそのことをもって騙したことは問いただされなくなり、結果として『騙し、騙されたという関係性』でなく『ただ何らかの存在又は非存在に騙されてしまったという記録』だけが残る」という、珍妙な宇宙観のように感じる。
焦点の一方化のおかしさは、自然現象などに置き換えてみれば顕著になる。河原の石が丸く小さいのは、石自体の柔らかさも理由の一つと言えるが、それと併せて川の流水の作用だと誰もが承知している。外的環境に関わらず、自発的に欠けたわけではない。
騙されたことに関しても、騙されるなりの不手際はあったのかも知れないが、騙す行為がなければそもそも事件は起こり得ない。
こうした抽象論そのものは、先述の通り大半の人間が理解できていると思われる。悪いのは騙した方か騙された方かと問われれば、多くは前者だと言う。
にも関わらず、国際侵略・弱者差別・性加害疑惑・イジメなど、自身の思想的立場や関与した有名人への好き嫌い、あるいは自分自身が当事者となるような具体的事案になると、先述の錯誤を犯してしまう者が頻出するように見受けられる。
恐らく、一つに「自身の嗜好を度外視して公正に判断することの難しさ」、及び、二つに「抽象論では解っていてもそれを過不足なく具体論へ落とし込むことが苦手」という二点の障壁によって、判断に歪みが出てしまうのだろう。
また、自意識の非対称性も、先述の偏向の遠因と考えられる。
我々一人一人は、平素より「私の知覚」「私の思考」「私の心情」が世界認識の基底にある。無論、他人視点で考えてみることもなおざりにはしないが、自身の視点と他者の視点とが並列に置かれているわけではない。
このことの必然として、「まずは自分自身が努力・研鑽し、より良き人間へと変わること」「周囲や社会がどうあろうとも、自身の倫理・価値観を易々と手放さないこと」といった、言わば「私小説的人生観」が浮き彫りとなる。
他方で「他人や、環境そのものを改めさせること」「自身だけでなく所属集団全体が改善するように取り組むこと」の重要性も等閑視されるわけではない。けれどもこのような志向もまた「私が」試みるものである以上、どうしても本元・先行にあるのは「私小説的人生観」の方になる。
このような「問題の内面化」が、先述の「焦点の一方化」とほぼ同じであることは言うまでもない。
その結果として、例えば自身が騙された当事者の場合、まず自分に落ち度・隙・不足があったのではと問題を内面化してしまいがちになる。
更に近親者においても、どこの誰とも知れぬ騙した者を関心の真ん中に置くことよりも、身近な彼が騙されたことを「自分事化」し、騙されたことを責める言動になることもある。しかしこれは、当人の向上や省察を促す動機があったとしても、それ以上に騙された当人を侮り、傷つける結果にもなる。
そして前記とは別に、多くの者がこうした「問題の内面化」「焦点の一方化」に慣れてしまっているため、騙した方の肩を持ちたがる部外者達についても、(意識的にか無意識的にかは別として)騙された方の内面にのみ焦点を合わせる挙動を招き易い。
ただし「問題の内面化」は、先述までのように罪悪の仕分けを妨げる作用もあるが、望ましい効能もある。
「親が悪い、会社が悪い、政治が悪い」などと安易な他責志向に陥らず、まず自身の昇華を促すためには、「原則的には、自身に降り掛かる出来事は、自身の器量で始末を付ける」という構えも大切だと思う。
とは言えそれが過剰になると、事件の責任を適切に自他へ割り振ることすら拒み、分不相応に物事を背負い過ぎてしまう。
そしていずれにしても、こうした内面化は当人の権利ないし責任の領域であり、他者がとやかく口を出すことではない。
ましてや、騙した方を擁護するために「騙された方の内面だけ」を追及するのは醜悪ですらある。
以上を踏まえると、「騙された方の悪さ」と「騙した方の悪さ」は、「悪さ」の種類や指向性が全く異なっているにも関わらず、それが混同されていると指摘できる。
「騙された方の悪さ」は、(そもそも「悪いこと」と呼ぶべきかは措くとして、)基本的には内面的な弱さ・軽率さに由来する。
それで他者に不便を掛けることもある以上は、罪・咎に繋がる場合も否めないが、無条件に第三者から非難される筋合いはない。
他方で「騙した方の悪さ」は、外面上の行動を要件とする。
騙しや加害の軽重・情状は様々あるとしても、一般的には他者を害し、社会を乱す営為に当たる。
したがって当事者間としてはともかく、第三者あるいは社会の一員としては、「騙した方が普通に悪い。騙された方の至らなさは、当人が考えておくことであり、我々があずかり知ることではない。」という態度が正着だろう。
冒頭で、本件の論争が古代から続いていることを指摘した。しかしここまで書いた通り、この議論では種々の、人間存在や社会観に纏わる見落としが凝集している。
そのためもしかしたら、今後永い人類史が続いてもなお、「悪いのは騙した方か、騙された方か」の言い合いは終わっていないのかも知れない。