年齢・語彙・嗜好に合わせた個人向けAI翻訳ができたとしても
読書やスポーツなど多様な娯楽があるが、同じ娯楽の共通体験を語り合うこともまた娯楽になり得る。
『ジャンプ』連載漫画や「月9」ドラマなどの感想が、学校や職場で話されることは今でも多いだろう。
ただしこうした共通体験は、市場性及び道徳性の面から娯楽の選択肢が限られていた時代に比べると減少しつつある。
男なら、公園で野球をして学校帰りで『ジャンプ』を読んで煙草を吸って出世を目指して残業していたような時代。
インターネットが無く、酒席を断ると変わり者扱いされた時代。
現代は視聴作品にせよスポーツにせよ、多様な商品・サービスが供給されており、なおかつ多様な嗜好で構わないという通念になりつつある。逆に言えば、需給関係や一般常識が狭小だった従前の状況が不満だった者が多くいた。
今よりも多くの人々が共通体験を語らえたことが懐かしい人は、多数派に属していたからだろう。自分の想像でしかないが、フツーじゃない趣味・嗜好の人は、ずっと肩身が狭かったのではないか。
そして多様な商品・サービスが商売として成立し得ているのは、過渡期においては多くの試行と失敗とが重ねられた結果でもあるのだろう。
更に現在では、特定の趣味・嗜好の需要数を把握することや、それに合致する消費者に提示すること――いわゆるパーソナライズやマッチング――が、インターネットやAIの技術を活用することで容易になりつつあるらしい。
ここで話は飛躍する。
現在もAI翻訳の精度は進展しており、公文書のみならず詩歌や漫画等を、母語話者の感覚に近い翻訳ができつつある。
その一方で、他国の信仰や政治情勢に配慮した翻訳も実装されている。
そもそも読者の教養や思想等によって、作品読解のあり方は異なる。
今後のAI技術では、特定言語話者全員に向けた翻訳とは別に、読者個人に合せた翻訳も可能になるのかも知れない。
読者の購入履歴やSNS投稿等から、スラング多用を好む/皮肉や撞着話法の理解が困難/ポリコレに敏感…等の特性を把握する。その上で、(物語の骨子を変容しない範囲で)セリフや設定を多少改変する。
この場合においては、日本語の漫画をそれぞれの日本人に向けた翻訳も勿論生成できる。
日本語を日本語に翻訳というのも奇妙に感じるが、言語哲学における翻訳不可能性原理に立ち戻ればむしろ当然とも言えよう。
こうしたAI技術は、個人の作品感得度を最大限に高める効果を齎し得る一方で、いくつかの問題も生じる。
まず、作者が自身の感性を以て作品に託した表現が、その意図以上に変容するという著作人格権に関わる課題を考慮しなければならない。
加えて、「同じ作品」を読んでいるはずなのにそれが個人向け設定であるために、共通体験を語り合うことが難しくなり、それは一つの娯楽が失われてしまうことでもある。
同化と異化との丁度良い塩梅は中々に難しいらしい。