自国がやるのはソフトパワーで他国にやられるのは文化侵略
日本の漫画やゲームが海外で評価されて久しい。
大小の誤解もあれど、日本の文化などが漫画・ゲームを通して各国に理解されるのは単純に嬉しい。
こうした作用は「ソフトパワー」とも呼ばれ、自国文化を他国へ積極的に紹介することで国際的地位を高めようとする思惑は日本に限らず各国が抱いている。
他方で、このような文化輸出は、受容側の文化・価値観・慣習・信仰等を変容させ得る。そのため「文化侵略」と否定的に評されることもある。
そうなると、肯定語のソフトパワーと否定語の文化侵略とはどう違うのかが問題となる。
なお本文における「文化侵略」は、植民地時代のような強制的な言語・宗教・文化等の改造即ち「強い文化侵略」を意味しない。
あくまでも、国際規範に則った上で、他国が自発的に受容する体裁で自国の商品・流行等を普及させる「弱い文化侵略」を、以降は単に「文化侵略」と記す。
結論を先取りすると、ソフトパワーと文化侵略に現象的な違いはなく、主体が自国なのか他の大国なのかで恣意的に肯定語と否定語を使い分けているだけと自分は考えている。
ソフトパワー/文化侵略は、国家間の関わりの中で言及される。関わりとは即ち、貿易や人流(留学・観光等)、翻訳作品の伝達等だが、これらはすべてソフトパワー/文化侵略に繋がる。要するに、鎖国せず国交を開くのは、ソフトパワー/文化侵略をおこなったりおこなわれたりと同義ではないのか。
文化侵略と呼ばれる時、発信国の政治指導層において意図的な同化(価値の変容)の企てが含意されている。ソフトパワーもまた文化理解の促進を目的とする点で似ているが、ここではその異同は措く。
いずれにしても、現代においても指導層はそこまで意識的に他国の価値変容を戦略化しているのだろうか。
第一に、固定的な価値観を押し付ける意義があるだろうか。先進国においても、人権やポリコレ等を踏まえた価値の変容は現代もなお継続している。こうした万物流転の状況で、一昔前の自国文化が受け容れられても国益には繋がらないと思われる。
第二に、そもそも発信国の文化・価値観等は明瞭に統一されているのだろうか。民衆政治が定着した現代でも、貴族文化の名残が残る政治指導層と庶民の文化とが若干相違している国もあるだろう。
また例えば日本では、典型的な日本人的価値観を備えている庶民とは別に、日本人的価値観に捉われない性格を強みに政治指導層に加わる者も少なくない。
加えて大抵の国は、地域ごとに文化や価値観が微妙に異なる。
このような状況では、自国の文化・価値観のうちどれを分与したいのか定まらないのではないか。
第三に、ソフトパワー/文化侵略を進めたとしても、前二者の場合も含めて意図した通りの結果を得られず、(まさに「文化侵略」という語に表されるように)逆に相手国の反発を買ってしまうことも多々あるのではないか。
以上を踏まえると、意識的・戦略的な文化侵略という見方は陰謀論的要素すら感じる。ごく素朴に、自国の商品・サービス等が各国に流通すれば有利という、国際競争においては当たり前の志向の結果に過ぎないのではないか。
また結局のところ、単に力の強いものは何をやっても批判されるという通俗論の表れにも思える。
先に、「ソフトパワー/文化侵略は、国家間の関わりの中で言及される。」と書いた。
しかしながらこの現象は、国家間に限らず普遍的に生じてもいる。
例えば国内における都会と田舎との関わりにおいて、都会への憧れからその所作・考えを摂り入れ、都会かぶれとして田舎で広める者もいただろう(反対に田舎の珍しい習慣が都会で流行することもあった。)。
したがって、ソフトパワー/文化侵略の作用そのものは、国家という枠組み及び発生元の意図を変数に加えずとも、異なる文化が交流することで生じる普遍的な現象と再解釈できる。
個人的には、土地の文化が、他国や他地域の文化に短期間で取って代えられてしまうのは寂しく感じる。
そういう意味では、文化侵略からの防衛を唱える者達の心情に賛同する。ただし我々の文化が他の国・地域の文化を変容させてしまうことにも自覚的でありたい。
国にせよ地域にせよ、自己中心性からは自分も含め逃れられないが、自己都合によって言葉を言い換える欺瞞は慎みたい。