即断せざるを得なかった当事者を、長考できる第三者が論評するのは難しい。

即時に判断して行動しなければならない場面は多い。知人や同僚に誤解されたとき。湖や線路に落ちた人を助けるとき。寝坊したとき。
多くの要素が関わる事柄である以上は、できれば慎重に検討して、――場合によっては調べものも加えて――最善の行動を見出したい。けれども即応せざるを得ないため、どうしても重要点を見落としたり、極端な話最悪手を採ってしまいかねない。

それでも、判断者の(気転が効く、頭の回転が速い、地頭が良い、などの語で表される)思考力によって概ね最善に近い行動に至れる場合は多い。
逆に言えば、そこで非合理的な行動をしてしまう人間はあまり頭が良くないと評価され易い。

原則論としては上述の通りなのだけれど、とは言えこうした「当事者の即断」と、それを論評する「第三者の長考」とは同列に語られるべきではないだろう。
抽象論が長くなってしまったので思いっきり具体論に移るが、『ドラえもん』の映画などで危機に陥ったドラえもんが大混乱して、四次元ポケットから手当たり次第に未来のひみつ道具を取り出し、その挙句によく考えればあまり効果のないひみつ道具を使用してしまい更に貴重な時間を喪う――といった場面がたまにあると思う(近年の作品でも似た展開があるのかは知らないけど)。
その局面のドラえもん達にどれほど感情移入しているのかにもよるのだろうけど、子供と一緒に視聴していた大人なんかは、やや冷めながら「ああいう時こそ落ち着いて考えて、絶体絶命となってしまう残り時間も逆算しながら、冷静にどこでもドアとかで対応するべきだったのに。」などと観終わった後で感想するかも知れない。

確かに上述の通り、即断状況でも合理的な行動が求められるし、それができなかった時は”相対的に”劣っているとされるのもやむを得ない。
その一方で、我々が同じ状況に在ったと仮定してみる。安全地帯である映画館の座席でなく、のんびりと考える時間がある帰り道の車の中でなく、数十秒以内に何かしらの対応をしないとのび太くん達も含めて全員がやられてしまう状況。
そうした時に、我々は適切な行動を採れるだろうか。できる者も少なくはないだろう。常に沈着に考量できる者。死生観や責任感が特異なため深刻な事態でも焦らず普段通りに振舞える者。普段は愚鈍とされるのに、なぜかそういう状況で起死回生の提案ができる主人公的な者。
しかしながら、その時のドラえもんと同じか、何ならそれ以上に錯乱して、もはや衆人環視におよそ耐えられない醜態を晒す者もある程度はいると思われる。

結論としては主題の通り。即断せざるを得なかった当事者に対して、長考できる第三者はより望ましい別案を示しがちだし、そうした後付けでの振り返りは大切だとも思う。ただしそのことだけを以て、即断案で行動した者が愚かで、より良い長考案を提示した者が賢いという訳ではないという当たり前のことを再確認してみたかった。
なので、他人の体験談等に対して「こうすれば良かったのに」と思考を巡らせることも結構だけど、それと併せて「同じ状況でも自分は堅実に情理を尽くせるものだろうか」も加味することを忘れずにいたい。

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