取材源の秘匿がいつから常識になったのか我々は聞かされていない
表現の自由の堅持・拡充のために報道機関(マスメディア)が果たしてきた役割は大きい。その一方、「第四の権力」となった現状への不信も増している。
公平中立を謳いながら政権への攻撃又は追従という党派性。権力の監視を掲げつつ政府高官や警察が選別的に提供した情報を垂れ流し。視聴者には冷静を呼び掛ける一方で扇動的(センセーショナル)な見出し・切り取り。報道の自由という題目の陰で「報道しない自由」も行使。政府や企業の不正を追及するが自身らも不適切な取材・報道。庶民目線のはずなのに一般人の商売やプライバシーを侵害。役人や業界の忖度・馴れ合いを指摘しても広告主や自社の醜聞には無反応。
批判を挙げればキリがないが、それでも勝手に動いて勝手に誇るだけならとやかく言わない。しかしそこに特権が備わり、不公正が生じるなら看過できない。
報道特権のうち、政治や警察捜査などの情報を特別に入手できることはさしあたり問題としない。それ自体情報操作の片棒を担ぐ懸念はあるが、市民生活との競合は薄い。
他方で「取材源秘匿の原則」の特権は、場合によっては公権力のみならず私人の評判を損ねるため、かねてからその正当性の範囲が議論されている。
そこで以降では、ひとまず取材源秘匿の原則を概説したい。
始めに講学的な前提を述べると、近代社会は市民の精神的自由が不可欠であり、その中には順に表現の自由・言論の自由・報道の自由・取材の自由が包含されている(言論と報道の自由が完全な包含関係かは諸説ある)。
そして取材源秘匿の原則は、取材の自由に不可欠とされる。
こうしたことを学校かどこかで何となく聞いたことがあってもなくても、民衆の多くは取材源秘匿の原則を、まあそんなものかとも思いつつ素朴な違和感を抱いてもいる。具体的にどこまで認められるのか、悪用される心配はないのか、と。
一般に、大きな報道価値のある情報は極秘ネタとして扱われる。そしてその情報は、尋常でない方法で入手したのではと予断する民衆は多い。
要するに、違法行為を伴った取材ではないのか。機密文書を盗み出したり、担当公務員に秘密を漏洩させたり。
そんな違法情報を利用していいのだろうか。
例えば刑事裁判で、検察側の証拠のうち違法・不当に収集したものは排除される原則がある。この原則は極めて強い国家権力の自制を担保しているが、「第四の権力」とまで言われる報道機関にこの原則を当て嵌めなくてよいのか。
別の例として、盗品と知らなかった善意の第三者であれば購入は合法化される。逆に故買と知っていたなら違法となる。先述の例では、違法な情報と判っていたのならやはり問題ではないのか。
そもそも政府や企業の機密情報はそれ自体が持ち出し不可であり、つまりは麻薬や凶器のように所持自体が罪に問われる禁制品のようなものではないのか。
重要情報の保護も含め、市民社会では様々な遵法が求められているのに、報道機関だけ情報漏洩の共犯に問われないのは矛盾であり特権ではないのか。
――こうした疑問を民衆が抱くのは当然だろう。少なくとも無条件・無制限に認められるべき特権ではない。
それでは逆に、取材源秘匿の原則が一切なければどうなるだろうか。
内部者が組織(政府や企業)の明白な非違を一手に収めていれば、現在なら内部通報制度も利用できる。しかしよほどの地位でない限り、自身の情報だけで全てを証明はできず、大抵は「非違の可能性を部分的に知っている」程度に留まる。
その場合、その者に相当の覚悟と調査力のある場合を除き、自身が今持っている情報だけを報道機関に漏洩し、その他の裏付け調査はその報道社に任せるとする判断は異常でもないだろう。
後述する通り、取材源秘匿が認められるための公益性等の判定は容易ではない。しかしこの特権が一切認められず漏洩者の公表を求められるのなら、今後は内部情報を報道機関に提供する者は誰もいなくなる。
組織の更生を図りたいのなら、内部通報制度を活用したり堂々と実名で訴え出たりするべきであり、報道機関に匿名で密告するような所業は肯定できない――と考えるのは、過去の告発者たちの悲哀を知らず、あるいは国家権力が抑制された近代的自由を空気のように享受している者だけだろう。
前記の場合は、報道上の公益性が明確にある。また組織の不正でなく、政府の重大な決定や方針を報じる場合も、民衆が知るべき情報として公益性が認められ易い。
先に公益性という語を使ったが、報道や言論の妥当性が司法で争われる際は、真実相当性・公益性・公共性の有無が焦点となる。
自分の理解では、真実相当性は「事実か否かに関わらず、事実と信じるに足るだけの客観性があるか」、公益性は「近代憲法が要請する、普遍的な諸価値の擁護に資するか」、公共性は「多くの者が関心を抱く(あるいは関心を抱くべき)事柄か」と定義される。
これら三つが備わっていれば、報道や言論に際し、他者に精神的苦痛や経済的損害を与えたとしても基本的には免責され、取材源の秘匿も認められる――なおこれも私見だが、公益性があれば、実際の関心が高くなくとも「関心を抱くべき事柄」と言えるため、前二者が備わっていればほぼ充分と考える。
無論、国防上の機密や進行中の警察捜査方針、公売の入札予定価格など、公益性も否定できないが公開による害の方が大きい場合は、違法となる。
また人気スポーツ選手の自宅や家族など、公共性はあっても公益性がない場合も、適法とは見做されない。
以上を改めて纏めると、我々の社会には言論の自由や報道の自由(取材源秘匿も含む)が不可欠だが、時には他者を傷つけ得る言論や報道が免責されるためには、真実相当性と公益性(及び公共性)を具備していなければならない。
しかしこうした説明を聞いてもなお、全ての疑問や懸念が解消するわけではない。
まず、公益性があったとしても、報道機関が直接に機密文書を盗み出すような場合、免責されない。しかし報道機関(記者)が担当公務員に情報提供を働き掛け、担当公務員が漏洩した場合、先述のように取材源の秘匿が認められる。
けれども報道側の手落ちなどで不意に取材源が発覚してしまった場合、基本的にその担当公務員は処罰される。
渡した側は咎められるのに受けた側は不問という奇妙な非対称性を一歩譲って受け入れるとしても、「取材の信頼性を保つのは法制度だけでなく、取材側における不断の情報管理」という認識がおざなりになっているのでは、取材源秘匿は報道機関にとって過ぎた特権だと言わざるを得ない。
次に、報道特権を享受する主体の範囲が不分明になっている。
インターネットやSNSの発達により、個人が情報サイトを運営したり、広く世界に向けて発信したりが当たり前になっている。
「報道の自由」の下に、精神的苦痛や経済的損害、及び取材源秘匿などの特権が与えられるのは、記者クラブに所属しているような既存の大手報道社だけなのだろうか。それとも現代では、真実相当性や公益性などが認定されれば趣味でやっている個人でも特権の対象となるのだろうか。
また、政府の重大な機密を報じることに公益性があるとしても、それでもなお公表するべきでない情報もある。
先述でも例示したが、そのうち国防上の機密は特に慎重さが求められる。
極端に言えば、その機密が公になってしまうことによって国家存立が危ぶまれる場合すらある。
「市民の精神的自由・身体的自由・経済的自由という最も基盤的で包括的な価値を擁護することで、我々の近代社会が保たれる」と言ってみたところで、防衛や治安が崩壊してしまっては意味がない。
とは言え大東亜戦争時の滑稽譚のように、機密を野放図に拡大解釈し、鉄道の時刻表や富士山の風景写真ですら「軍機ナノデ掲載ヲ禁ズ」と掣肘されることは避けたい。
いずれにしても、国家存立に不可欠な機密なのか、時の政府・与党にとって不都合な秘密なのか、首相個人や担当外交官の私欲のための内緒なのか、という分別は欠かせない。
そして、取材源が嘘をついていたり、取材源自体が存在すらしない懸念もある。
特に週刊誌などによる、従前から公益性が問われているような有名人の私事暴露で、そもそも告発者や被害者を自称する者が存在するのかと疑う読者も少なくない。
報道の自由では真実相当性が最重要なのに、次点の公益性を認められたことによって、真実相当性に最も関わる取材源への確認が外部からはできなくなる。この倒置に対して、報道機関の善意だけに頼るのは危うい。
繰り返す通り、取材源の秘匿が認められれば、直接的な特定は勿論、消去法や断片情報の組み合わせなど間接的に特定することも拒否できる。
その上で情報の確度を高めるために、取材源が提供した原証拠を一部加工した上で裁判に提出したり、独立した私的調査機関の鑑定結果を添えたりするなど若干の工夫が国内外でなされている。
個人的な思い付きとしては、「裁判官と、民事被告(又は刑事被告人)である報道機関側のみが立ち会う非公開の場に取材源も出頭させ、裁判官による尋問により証人としての妥当性を審査する」又は「裁判終了から10年ないし20年後に、裁判官のみで構成する真実相当性の認定会議を非公開でおこない、報道機関が秘匿した取材源の情報や取材メモ等を開示させる」などが挙げられる。
ただしいずれにしても、裁判の相手方による反対尋問を経ない等の大きな欠落を補修するものではない。また、「記者さんに話すだけで、後は全て匿ってくれる」という情報提供者の期待が、こうした制度の後は相当に委縮してしまう懸念もある。
前記の試案は専門家でもない自分の空論に過ぎないが、どちらにしても現状も引き続き真実相当性と報道の自由とが両立し難いため、国民的な議論が求められている。
少なくともこの種の考察において、全ての国家に適用できる普遍的な解法はなく、それぞれの法体系や国民感情などにも鑑みなければならない。
また、こうした法律論でありがちだが、国内外の判例や運用を正確に踏襲した論考を整えただけでは充分でない。判例等に込められた着眼点や論理構成を知ることも大切だが、それを再現するのが社会にとって最も望ましいのか、という問いから議論は始まる――そもそも最高裁判決ですらも、その時々の政治や世論から自由ではない。
しかし遺憾なことに、これまで何度もこうした問題が社会的関心になりかけたことはあったが、「当事者である記者や公務員の関係・人となりや、政治家・企業あるいは報道社に対する好き嫌い」など、卑俗で些末な事柄に話題が移り、そのまま現在に至る。
こうした大衆感覚にも大いに問題はあるが、この件に関して自分としては報道機関を特に批判したい。
本文で論じた、報道の自由や取材源秘匿の原則などは、もしかすると報道社の新入社員研修か何かによって、報道界では常識なのかも知れない。
けれども依然として民衆の側が前記の常識に係る基礎知識すら共有していない。その理由として当の民衆や教育などにも問題があるのだろうが、報道機関による啓蒙意識が弱いからではないか。
今日も様々な報道機関が、報道の自由を掲げつつ、多過ぎるほどの情報を伝達している。
しかしながら報道の自由の根幹に関わるはずのこうした考えを、過多にも感じる情報群の中にほとんど差し挟んでいないのであれば、結局のところ読者との論議を欲していないと疑わざるを得ず、何のための自由なのかと自分は思う。