必要悪は私以外の誰かがやっておいてほしい
戦争を考えないようにしていれば戦争は起こらないと信じていた日本人の安全保障意識を、多少改めさせたのは湾岸戦争だという指摘がある。
評論家の故・西部邁は『戦争論』で、≪湾岸戦争における日本の支援は非軍事に限るべき≫という耳障りの良さそうな主張に対し、「いかなる手段もその目的とのかかわりで性格が定まる」と論述しその偽善性を批判した。
本文ではこの西部の論考を下敷きに、≪必要だが自身は手を下したくないことを他者にやらせることで、自身の道徳的地位が保たれると思い込むこと≫の欺瞞性を記述したい。
湾岸戦争から30年以上経ち、ウクライナ戦争を目の当たりにして、戦争のことを考えないでいた方が良いと考える日本人は流石に少なくなったと思われる。併せて、軍事衝突が生じている際に、お話し合いだけでなく国際社会による軍事介入が必要な場合もあるとの認識も高まりつつある。
それでもなお、派兵はアメリカやイギリス等が主導し、その他の国は武器・弾薬を提供し、憲法上の制約がある我が日本は食糧・医薬品等の非軍事的支援に限定することが望ましい――と考えている日本人は多い。
湾岸戦争後のPKO論議と同じことが繰り返されている。
先述の通り、軍事的活動の必要性は一応理解されている。
被侵略国を救うために食糧や医療物資を輸送するとしても、それを警護する軍事力がなければ物資は破壊されたり侵略国に渡ったりする。
そもそも侵略兵力を押し返す有形力が無ければ、侵略状態はいつまでも続く。
更に付け加えると、対立勢力(侵略国)にとっては、軍事的支援だろうが非軍事的支援だろうが敵対行動としか認識されない。
食糧も医薬品も、等しく両国に分け与えましょうという狂気じみた活動を想定しているなら別だが、被侵略国のみに配布するのであれば本質的には軍事的支援と変わらない。
まさか補給(輜重)を軽視していたと言われる旧日本軍の思考をなぞっているわけではないだろうが、補給だけをしているから対立勢力にも見逃してもらえるはずもない。
こうした論理展開を何となくにせよ把握しているにも関わらず、我が国における軍事を封じ続けるのはなぜか。軍事を封じる理由=憲法規定を変えようとしないのはなぜか。
「平和憲法を護りたいから片手落ちの支援しかできません」という態度で他国は納得すると思っているのだろうか。国際情勢にせよ自国の憲法にせよ、我々ではどうしようもできない自然災害や物理法則か何かのように思い込んでいるから、主体的に関与して状況を改善したいと考えないのではないか。
現在は日米安保条約があるが、そうした前提を取り払って、我が国が特定国に侵略されつつある時、友好国に対して何を望むだろうか。
友好国に「我らは日本人の大好きなコメと千羽鶴だけ送ります」と言われたらどう感じるだろうか。
派兵はおろか武器等の輸送すら拒まれ、その説明に「我らは平和を愛しているので非軍事的支援とします。軍事的支援は平和を愛さない方の国に期待して下さい。」とのたまうのが一つの小国だけならまだいいかも知れない。しかしすべての国が平和を愛し過ぎたあまりどこも軍事的行動に移ってくれなかったら、我が国はどうなるのだろうか。
くどいようだが改めて述べる。「我が日本は平和憲法を変えたくないので、平和的でない支援はしない」という主張が、国際紛争に切実に向き合っている当事国や軍事支援国にとってどのように聞こえるかを改めて考え直さなければならないと自分は思う。
以上については国内においても同じことが言える。
歴史に詳しくなく、また現代においては既に成り立たない図式であろうが、近代以前は屠殺(食肉加工)事業を被差別民に負わせていたとされる。
日本においては動物のものも含め血や死をケガレとして避ける傾向が強く、そのため社会的には必要な屠殺事業を平民以上が担わないようにされていた、と説明されている。
また、欧州では死刑執行人は被差別民として扱われていたらしい。欧州については更に詳しくないが、(死刑制度が必要とされていたにも関わらず)やはり好き好んで死刑に携わりたい者はいないという心理/都合の結果なのだろう。
こうした社会構造もまた偽善・欺瞞の帰結と言わざるを得ない。
屠殺も死刑も必要であることを解っていながら、自身らが携わりたくないから弱者に押し付ける。
軍事と同様、死や危険に近づきたくないという感情は理解できる。
しかしそうであれば、社会が実施するべき事柄を一手に担ってくれる者達を尊敬し、関われない自身らを卑下するべきであろう。
それなのに、逆に”彼ら”を被差別民として蔑み、平穏・清廉な”我ら”の道徳的地位が高いままに保たれると思い込むのは倒錯も甚だしい。
ついでに付け加えると、先んじて問題提起を試み、当然ながら賛否両論を浴びる者に対して、「武闘派」「波風立たせる」と微妙で屈折した評価が下されがちな現象も前述の構造に通じるものを感じる。
結局のところ、冒頭の西部論考で説かれている「手段-目的」の関係論に尽きる。そこが誤魔化されがちなことに対して心理学的な説明は付くのだろうが、それを本文で詳述するつもりはない。
いずれにしても、戦争を考えないことで国の平和を実現できていたぐらいなので、自身らの心理についてもあまり考え過ぎない方が精神の健康を保てるのかも知れない。