「同じ〇〇民の一人として恥ずかしい」と言う人が言いたいこと

同じ共同体の者が、良からぬ事件を(特に共同体の外で)起こした時、「同じ〇〇民(日本人、漫画オタク、東大生、子育て世帯…など)の一人として恥ずかしい」と言う人がいる。
本文ではこうした発言が意図するところを考察したい。

発言を字義通りに受け取ると、[その事件を望ましくないものとして受け止め、なおかつ特に自身と同じ共同体の一員が起こしてしまったことを遺憾に考えている。その上で、一員による事件が他の共同体に知られてしまうことを恥だと感じている。]となろう。

前記の認識では更に次のような含意が診て取れる:自身は、属する共同体がより善良な人々で構成されることを望んでいる。/一員が起こした事件は、共同体及び構成員全員への非難を招く。

以上の認識に対して、自分としては以下の疑問を抱いている。
まず、構成員が連帯して悪評を負うことを危惧しているが、このご時世に「〇〇人は全員××」など、差別に直結する全称命題を乱用してきた者には「安易に一括りで論じるな」と反駁すれば済むのではないか。
次に、そもそも連帯責任を感じているのだろうか。感じているのなら、「彼の行動を見過ごしてしまった我々の共同体の風潮にも問題があり、今後は然々のように改めていかなければならない。」といった物言いが伴うものではないだろうか。
実際のところは連帯責任も恥もさほど感じておらず、仮に「お前も〇〇民の一人なら反省しろ」と言われたら「あんな者と一緒にするな」と即座の分離を試みるのではないだろうか。

更に邪推を広げてしまうが、この発言に至る思考の序列として、まず自身の評価が下がることを避け、次に自身が弁明せざるを得ない状況を嫌い、そして事件を起こした共同体の一員を疎い、最後に事件で被害等が生じたことを憾んでいるように思えてならない。すなわち多くの者が人倫に沿おうとする時と真逆の優先順位なのではないか。
要するに、冒頭の発言をする者の多くは、事件を憎み共同体の風紀を護る人格者を装うことで、自身を擁護すると共に他者を責め罰したいだけの偽善者ではないかと自分は疑わざるを得ない。

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