仮称加害者が推定無罪のうちは、自称被害者は推定有罪という信仰

我々の周囲は真偽不確かな情報に溢れている。≪歴史上の偉人は実在したのか≫から、≪有名人への風評は事実か≫まで。
特に支持者又は不支持者の多い人物・仮説が関わる論争――例えば有名人の素行不良ないし冤罪が問われる事件の場合、敵味方陣営に分かれた感情論に陥り易い。

こうした事件にあたり、最近の我々は主に二つの建前を戴いている。勧善懲悪の平等適用と、懲悪に際しての厳格審査。
すなわち、――仮に風評が事実なら、我々が支持する有名人であっても事実に応じた制裁を受けることは容認する。ただし、当人の仕事を奪う等取り返しのつかない処置になり得る以上、罪悪の有無は信用できる公的機関による審判を経る必要がある――が要請されている。

以上を踏まえた上で、更に≪制裁は当人の身位に限られ、近親者や出生地、あるいは発明や作品にまで連座してはならない。≫、≪利害関係や信用性が疑われる報道機関(週刊誌等)による、証言のみの風評だけで制裁されてはならない。≫等、個人的には賛同できる主張が展開されることもある。
ただし、内容的にその罪悪と関連性が高い作品も保護するべきか、支持者の多いスポーツ選手や芸能人はともかく政治家や報道記者等に対しても風評だけによる制裁を慎むべきか…等、我々の論説が多くの事例を網羅し得ているかの検討も別途要するだろう。

刑事事件での推定無罪原則にも繋がるこうした考え方は正しいと思う。
しかしながら、罪悪があると言われた者(仮称の加害者)が推定無罪だからと言って、その反対陣営(罪悪を発信した報道機関や、その罪悪の被害を受けたと自称する者)が推定有罪となっているわけではない。刑事裁判等で罪悪が認定されるまでの間なら、週刊誌や被害証言者を嘘吐きだと非難してよいはずがない。
そしてもし仮称加害者の無罪が刑事裁判で確定しても、そのことで直ちに自称被害者の名誉棄損等が成立するわけでなく、今度は自称被害者に対する(名誉棄損等の疑いによる)刑事裁判もまた無罪となる場合もある。結局のところ、裁判でシロクロつくとは限らないという根本的な問題がある。

支持者の多い有名人への告発は、夥しい中傷が蠢く。
なぜその時に警察に行かなかったのか。なぜ何年も経ってから今告発するのか。なぜ物証も無いのに他者の信用を得ようとするのか。なぜ週刊誌に密告したのか。なぜ匿名なのか。――
こうした疑問に当て嵌まる者は、自身の記憶に基づいた被害を公言してはならないらしい。
確かに自分の価値基準に照らし合わせても、利害に塗れる週刊誌より警察に相談する方が、また匿名より覚悟を感じられる実名の方が、信用性は増す。しかしそれらは相対的な違いに過ぎず、前記に当て嵌まるからといって絶対的に信用できなくなるわけではない。

様々な≪被害者≫による手記や心理が知られるようになった現在――当時は冷静な判断ができない精神状態で、何年もその記憶に苛まれる中で、もはや警察に行っても取り合ってくれないことが自明な中、報道記者が(別の思惑があるにせよ)寄り添う姿勢を見せて自身の代わりに社会正義を執行してくれそうな状況で、当事者が週刊誌等を頼りにすることがそんなに理解し難いだろうか。
こうした状況で、「私が被害者だったとしても、客観的な証拠を示せないなら、加害者との紛争に世間を巻き込むような挙動はしたくない」と考えるのは結構な美意識だと思うが、「先行きは不明でも、とにかくあの時の恨みを晴らさないではいられない」という念に縛られるのも一方では理解できる。

前述の通り、信用性を調達するという本旨を踏まえれば、週刊誌への物証なき匿名告発は必ずしも充分な行動とは言い難い。
そもそも言論の自由は無制限ではなく、仮に≪真実≫だとしてもそれが証明されなければ名誉棄損等に問われねばならない。ただし逆に言えば、そうした可能性を熟知しているなら、自身の被害なるものを発信して構わないと自分は考える。
「(反対に訴えられる覚悟があれば、)匿名で、物証のない密告をする自由があると主張するつもりか」との反論が想定される。自分としては、その通りだとここまで述べてきている。
その上で、報道段階での予断・偏見は抑えるべきだという当初の題目を守ればよいと考えている。
予断が生じる責任は、報道機関ないし自称被害者に負わせるのではなく、不確かな状態で予断を膨らませてしまう大衆に問うべきではないだろうか。自称被害者の方に責任を向けるのは、被害が虚偽であるという予断を持っているからにも思われる。

先述のような、信用性に関わる素朴な疑問に留まらず、それこそ偏見と言わざるを得ないような“定説”も散見される。解決金や売名に繋げるための偽装/成功者に対する弱者の逆恨み/本当の被害者ならこうした言動は採らない…等々。
仮称加害者に現在進行形で寄せられている無根拠な非難に対抗するために、前記のような脳内状況証拠を、やはり無根拠な反論だと自覚しつつ放言するのなら辛うじて理解できなくはない。

確かにこうした状況では、自称被害者を擁護する側からの決めつけも甚だしい。資産・地位・権力を持つ強者は悪人に決まっている/弱者、特に女性の被害証言を疑うのは、女性への二次的な加害行為…云々。
仮称加害者の陣営と同じ水準の”定説”を乱用するのは、これも同じく裁判の動向などに内心で不安を覚えているからだろうか。

ほぼ蛇足になるが、「芸能界(業界)はその始まりからしてヤクザな仕来たりで成り立っている聖域なのだから、一般人の倫理・規範がそのまま通用するものではない」という物言いも恣意的と言わざるを得ない。
仁義だか任侠だかを誇る割には、こうした事態に際して時効や推定無罪、手続き的正義など素人さんたちが愛用する理屈に縋るのは滑稽さを禁じ得ない。

結局のところ、我々はいずれかの予断なしに真偽不確かな事件を視ることは難しいらしい。多くの人が願っているのは、双方について公正な判断・主張が展開されてほしいのではなく、一方(仮称加害者又は自称被害者のいずれかのみ)への予断を抑えつけたいだけなのだろう。
中立を装いつつも「潔白を証明してほしい」(又は「罪悪が認定されてほしい」)という願望形の物言いにそれがよく表れている。それはすなわち、自称被害者(又は仮称加害者)が嘘吐きであることが認証されてほしいと言っていることに他ならない。

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