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noteとmixi、書くことに対するハードルの違い
インターネット老人会の皆さまこんにちは。
最近、mixi以来久しぶりに毎日まとまった文章を書いている緑川です。
先日の2週目の反省会記事で
「mixiの日記と何が違うんだろう?」
という疑問を抱いたのでそのことについて考えていこうと思います。
そういう記事、多分探せば出てくると思うのですが、
「先行研究に影響され過ぎてすぐに独自性を無くす」
という自分の特性に気付いたのでまずは自分で思うことを書いてみます。
(この気付きもnoteを初めて良かったことの一つです)
先日の記事で挙げた違いは以下の4点。
不特定多数に見られる環境。
見られることを意識できるようになった。
.twitterなどで文章を打ちなれた。
大きな出来事を書かねばと気負わなくなった。
この辺を軸に心理的ハードルの違いについて思うところを書いていきます。
1.環境
mixiというのはクローズドな環境でした。
だからこそリアクションもつきやすいのですが、
それゆえに書きにくいこと、というのがあった気がします。
今思うと書けばよかったのですが、
バイト仲間に「こいつバイト休んで遊んでやがる」なんてことを思われるのが嫌で書けませんでした。
そんなことを言う人たちじゃないし、自分が読んでもそんなこと思わないのに。
当時は大学生で若かったのもあると思いますが、自意識過剰でした。
それで結局「〇〇な体験をしたので頑張ります」とか、そういう日記が多かった。
殆ど全員身内なので八方美人なことしか書けなかったんですよね。
紹介制だったmixiと違ってnoteは先天的な身内という概念が無いので
「これあの人が読むかもしれんしな…」とか考えずに思いついたことを書けるので書くハードルが低い気がします。
2.見られる意識&3.Twitterなどで文章を打ち慣れた
これはプラットフォームの違いというより著者側の都合ですが、
不特定多数の人に自分の文章を読まれる経験を積んできたというのは大きな違いです。
自分本位になり過ぎない文章を書こうという意識が根付きました。
というかmixi全盛時代は二十歳そこそこの特に賢くもない学生だったので
文章に自分本位という概念が適応されるかどうかも然程考えたことがなかった気がします。
インターネットの波の中で文字を打ち続けて…え、もう20年くらい?
まあ、書くことそのものにも慣れましたし、それを知らない人に見られることにも慣れましたね。
特にTwitterは140字しか書けないので文字数を節約する事に慣れました。
ボリュームが無いことをネットの海に流すことへの抵抗もなくなりました。
4.大きな出来事を書かねばと気負わなくなった
これね。
これが一番大きい気がします。
言ってしまえばこれも慣れなんでしょうけどね。
例えば「免許取ったどー!」とか「試験しんど…」みたいな日記でも
イベント性が無いと書けないと思っていたんですよね。
日常のちょっとした気付きとか、反省とか、そういう記事の中に素敵な物が眠っていたりするわけです。
ただそれをガチ身内に見せるのはちょっと恥ずかしかったんですよね~~。
「日記」か「記事」か
ここからは今日新たに考えていたことですが、名称の差による影響も大きいと思います。
日記と言われると自分の身の回りに起こったことを書く物という印象からスタートしますが、記事と言われると何を書いても良い感じがします。
もちろん日記でも、セールスでも、小説でも。
とくに現状のわたしの場合は「とにかく長文(1000字程度)を公開することに慣れる」を目標にしているので今日書く文章と明日書く文章のテイストが違っても気にすることはないんです。
シンプルに「書く」ことだけに集中できる。
これがnoteを初めてから14日、まだまだこれからも毎日更新できそうだとわたしが考えた理由です。
なんのかんのと書きましたが、mixi大好きでしたね~。
大学卒業と共になんとなく離れて行ってしまいましたが、
青春の一ページであることは疑いようもありません。
子供の画像を共有するアプリ「みてね」を初めて起動したとき、画面に「mixi.ink」の名前を見て「生きとったんか~!!」と再会に歓喜しました。
何かのゲームアプリとかで生き残っているのは知っていたんですが、「みてね」はまさにあの頃のmixiの特性を生かすアプリを作っていて、身内のように喜んでしまいました。
百年企業を目指して頑張ってほしいです。陰ながら応援しています。