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御言葉の黙想 士師記18章19節 2024年9月3日

本文:
彼らは言った。「静かにしなさい。口に手を当て、私たちと一緒に来るのです。私たちの父また祭司となってください。一人の家の祭司であるのと、イスラエルの部族と氏族の祭司であるのと、どちらがよいですか。」

黙想:
イスラエルのダン族にはいまだ相続地がなかった。その後、相続地を求める彼らは肥沃な土地を探し当てた(18,7)。ところで、その土地の近くに、あるレビ人が住んでいた。彼はミカという者に雇われた祭司であった(18,4)。
ダン族は見つけた肥沃な土地を征服する際に、その祭司を連れて行こうとした。大きな事業を行う前に、霊的な導きを欲していたのではないだろうか。しかし、ミカは当然それに反発する。だが、ダン族の戦士たちに力で脅かされ、祭司を連れ戻すことを断念した(18,25)。

驚くべきことは、祭司のあまりの節操のなさにある。「一人の家の祭司であるのと、イスラエルの部族と氏族の祭司であるのと、どちらがよいですか」。このダン族のスカウトに祭司は喜びを隠しきれず(18,20)、口説き落とされた。このような俗物の聖職者がいてもいいのだろうか。

しかし、大切なことは聖書はこれらの出来事を淡々と報告し、批判を加えてはいないということである。これらはすべて、主の摂理の中で起こった出来事である。
神に仕えながら、利益に目がない俗物祭司の姿は、私たち自身の姿を暗示しているのかもしれない。しかし、彼の名はヨナタン(主が与えた)である。主はヨナタンのような私たちも、神の民として受け入れてくださる。
神は愛である(ヨハネの手紙一4,16)。

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