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御言葉の黙想 ヘブライ人への手紙11章28節 2024年8月4日

本文:
信仰によって、モーセは、滅ぼす者が初子たちに触れることのないように、過越を行い、血を塗りました。

黙想:
信仰とは何か。ギリシャ語のピスティス(πίστις)は信仰、信頼、信念、誠実さなどの意味合いをもつと思われる。ヘブライ語のエムナー(אֱמוּנָה)は確実さ、信頼性、誠実さ、忠実さなどの意味合いを持つと思われる。
聖書の文脈を考慮する場合、文字通り「信じる」ことを意味すると同時に、「誠実である」ことを含んでいると解釈できるのではないだろうか。

聖書の根本思想は、ただ神のみが主権を持つということを指し示している。いわゆる人間の行為による救い(行為義認)は、この主権に対する挑戦的な響きが含まれている。
神の御前で「これだけやったんだから、これだけください」ということは原理的にできない。ただ、全人格を捧げものとして神に明け渡して誠実に信頼するときに、恵みとして与えられるのが、救いであると思われる。

そう言った意味で人間側が神に対してできる、唯一の応答が信仰であると言えるだろう。ただ、この信仰も選びの原理によってもたらされるものである(ローマの信徒への手紙9,11-12)。よって、誰も神の前で誇ることはできない(コリントの信徒への手紙一1,29)。

本文の示す文脈に沿って、信仰を考えてみると、信仰とは「神からの約束を信じて待つ」ということでもある。信仰の先祖たちは、皆この約束を信じて待ちわびた者たちであった(11,2)。
彼らの約束は完全には成就しなかった。にも拘わらず彼らはその約束に希望を置いて待ち望んだ(11,13.11,39)。なぜ、こんなことが可能なのだろうか。なぜ、こんな仕打ちを受けてもなお、信じ続けなければならないのだろうか。

「神は、私たちのために、さらにまさったものをあらかじめ用意して」くださっている(11,40)。だから、「完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう」。「この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです」(12,2)。

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