
『一滴の意志』
田村智樹は、都会の喧騒から遠く離れた山間の小さな町に住んでいた。三十代半ば、独身で、かつては東京でシステムエンジニアとして働いていたが、ある日突然会社を辞め、故郷に戻ってきた。理由を聞かれても、彼はただ「息が詰まったんだ」とだけ答える。
その日の朝、智樹はいつものように裏山に登っていた。手に持った小さなバケツには、近くの沢から汲んだ水が入っている。山頂近くの枯れかけた杉の木に近づくと、彼は慎重にバケツを傾け、根元に水をかけた。もう何ヶ月もこうやって毎日、少しずつ水を運んでいる。山はここ数年、異常な干ばつに襲われ、かつて緑豊かだった風景は色褪せていた。
町の人々は智樹の行動を奇妙に思っていた。ある日、近所の居酒屋でビールを飲んでいた男たちが、彼の噂話を始めた。「田村のやつ、また山に水運んでたらしいぜ。あんなちっぽけなバケツで何になるんだ?笑えるよな」と一人が言い、他の者たちがゲラゲラと笑った。智樹はその場にいなかったが、風の噂でそんな声が耳に入ってくることもあった。
きっかけは、半年前に起こった小さな山火事だった。幸い大事には至らなかったが、焼けた木々を見て、智樹は何かを感じた。子供の頃、祖父に連れられてこの山を歩き、鳥のさえずりや風の音を聞いた記憶が蘇った。あの豊かな自然が失われていくのを、ただ見ているだけではいられないと思ったのだ。
ある夕方、智樹が山道を下りていると、幼馴染の美久が声をかけてきた。「智樹、また水運んでたの?そんなことして何になるの?」彼女の口調には嘲笑はなかったが、どこか呆れたような響きがあった。
智樹は足を止め、空を見上げた。灰色の雲がゆっくりと流れている。「俺にできるのはこれくらいしかないよ。一滴ずつでも、いつか変わるかもしれないだろ?」彼の声は静かだったが、どこか確信に満ちていた。
美久は黙って智樹を見つめた。彼女には、彼が何を言いたいのか完全には理解できなかった。でも、その瞳に宿る小さな炎のようなものを見て、なぜか胸が熱くなった。
その日から、町に小さな変化が起こり始めた。美久が自分の畑に水を運ぶ姿が見られるようになり、子供たちが学校帰りにペットボトルに水を詰めて山に持っていくようになった。ある老人が言った。「田村のやつ、バカみたいに頑張ってるから、俺も何かやらなきゃって気になるよ」と。
智樹は気づいていた。一人では山を救うことはできない。でも、一滴の水が誰かの心に落ち、それがまた別の誰かに広がっていくなら、もしかして――。
ある日、智樹が山頂に立っていると、遠くでかすかに鳥のさえずりが聞こえた。干ばつで静かだった山に、久しぶりに命の音が戻ってきたのだ。彼はバケツを手に持ったまま、そっと微笑んだ。「俺にできることは、これだけだ」と呟きながら。